2011年10月23日日曜日

「タエ」の語り内容の検証その3

(その2からのつづき)
⑤ 「おカイコ様」という呼び方について
タエは蚕を「おカイコ様」という尊称で呼んでいます。
天明当時、養蚕の盛んであった上州の農民は、絹糸という財をもたらす蚕に対して「おカイコ様」と呼んでいたことを確認できました。
現代語としてはほぼ死語といってよいこの言葉を、里沙さんに尋ねたところ、「おカイコ」という呼び方は聞いたことがあるが、「おカイコ様」は聞いたことがないし、カイコに「様」までつける呼び方は知らないという回答でした。
つまり、里沙さんの語彙(ごい)のなかには、「おカイコ様」がないことが確認できました。
⑥ 渋川村の降灰量について
浅間山の大噴火による火山灰について、「白い灰が毎日積もります」「軒下(まで積もった)」と語ったことについて、渋川村の降灰量の記録は発見できなかったが、八月四日・五日両日の大噴火だけで軽井沢や碓氷峠で軽石が1・5メートル積もった記録が残っており、三か月におよぶ長期降灰があったこと、および渋川市と浅間山までの距離(約50m)と、偏西風に乗って降灰が広がる事実を重ねると、ありえる積もり具合だと推測できます。
天明3年7月の浅間山大噴火に関わって残っている諸資料を読むと、その噴火の規模はわれわれ現代人の経験している噴火をはるかに凌ぐ、想像を絶するものであることが分かります。
⑦ 火山雷について
噴火にともなう火山灰の摩擦によって雷が生じることは事実です。しかし、この事実を知る人は、相当噴火に詳しい知識を持っているか、実際に大規模噴火に立ち会っているかでしょう。
天明三年八月四日・五日の浅間山大噴火では、雷鳴・稲妻がすさまじかったとされており、
「村の人は、鉄砲撃ったり、鐘を叩いたり、太鼓を叩いたりするけど雷神様はおさまらない」
というリアルな語りは十分ありえる事実だと思われます。
綿密な時代考証を元に執筆されている飯嶋和一の『雷電本紀』P69には次のような浅間山大噴火の叙述があります。
家々は窓も戸も閉じ、昼に行灯をともし、時折襲ってくる地の底のうねりと、頭を割られるような爆発音の耳鳴りにおびえていた。浅間周辺の村々は鬼、魔物を射殺すべく、鉄砲や弓矢を浅間山頂をめがけて放ち、鉦や太鼓を打ち鳴らし、魔物を追い払おうとしていたが・・・・(中略)上州との動脈路、中山道碓氷峠はじめ、主要路はどこも4尺を越える灰に埋もり,7月に入ると人馬の通行は不能。軽井沢の宿は、石、砂、灰に塗り込められ、谷や川はすべて埋まった。
私はこの小説の上記一節を読んだとき、里沙さんもこの小説を読んでおり、その記憶をもとに
村の人は、鉄砲撃ったり、鉦を叩いたり、太鼓を叩いたりするけど雷神様はおさまらない」

という語りを作話した可能性を疑いました。しかし、『雷電本紀』の出版は2005年7月1日であり、「タエの事例」セッション2005年6月4日の約1ヶ月後でした。里沙さんが、『雷電本紀』を事前に読んでセッションに臨んでいる可能性は否定できました。
⑧ 「急ぐ! 時間がない」の意味について 
唐突に、「急ぐ! 時間がない」と言ったタエの言葉の意味について、私には何を急がねばならないのか見当がつつきませんでした。
前出、『渋川市史』巻二、「天明の浅間山大焼」の項の記載によれば、「天明3年8月5日午前10時頃発生した鎌原火砕流は吾妻川上流部まで達し、一時的に川を堰き止めた。まもなく決壊し、鉄砲水の泥流となって下流の村々を襲った。武州中瀬村(現伊勢崎市)には午後3時頃に押し寄せた」といいます。
これを計算すると約200Kmを5時間で流れ下ったことになります。
したがって、渋川村には2時間余りで泥流が到達したものと推定できます。こうした史実に照らすと、川の流れが止まってしばらく時が経っているので、間もなく来る大泥流と自分の死を予測して、もう「時間がない」から私と話すことを「急ぐ!」と言っているものと思われます。なお、「時間」は明治以後にできた言葉なので、ここはタエ直接の発話ではなく、感情がクライエントの語彙によって翻訳されたものだと考えるべきでしょう。
この史実をたどって計算すると、タエの人柱としての溺死は天明3年8月5日正午前後であろうと推測できます。
(つづく)

0 件のコメント: