2011年10月26日水曜日

「守護霊」の語り内容の検証その2

(その1からのつづき)
③ 渋川村の吾妻川泥流被害について
 「村は洪水で壊滅状態になりました」と守護霊が語ったことについては、『渋川市史』巻五、資料編に、当時の被害報告書である「天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳」が収録されています。
これによると、渋川村の被害は、「田畑少々流水入 人壱人(ひといちにん)流(ながる)」となっているだけです。
したがって、渋川村は「壊滅状態」ではなかったわけです。ただし、すぐ上流の隣村の川島村(現渋川市川島地区)では、「家百十三間(軒)人七十六人 馬三十六疋(ぴき)」の被害が記載されており、まさに壊滅状態でした。
そこで、この川島村が、過去に渋川村上郷と呼ばれたことはないかを、渋川市教育委員会小林良光氏に調査していただきましたが、そういう記録はないとの回答でした。
つまり、
「村は洪水で壊滅状態になりました」
と語った偉大な存在者の語りは、これを渋川村を指していると解釈すれば、史実とは食い違っていました。
ただし、渋川村とは特定せず、「村は」と言っているので、これを吾妻川と利根川流域の被害に遭った村々全体を指していると解釈すれば、五十五か村が大きな被害(流死1624人、流失家屋1511軒)を被っているので、あながち食い違っているとは言えないかもしれません。
もう一つ興味深いのは、渋川村では「人壱人流(ひといちにんながる)」の被害しか出なかったという記載です。
このたった一人の泥流に呑まれた犠牲者は、タエであるとしか考えられません。
タエや偉大な存在者の語りが真実なら、タエに違いないでしょう。
タエとともに雷神に供えた馬も流されているはずなのに、その記載がないという矛盾がありますが。
ただし、馬は流されることなく助かったのかもしれません。
あるいは、供え物としてはじめから犠牲にする予定の馬であったため、被害報告からはずされたのかもしれません。
(つづく)

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