2011年10月22日土曜日

「タエ」の語り内容の検証その2

(その1からのつづき)
その1④のつづき  浅間山大噴火にともなう洪水被害についてタエの語りの検証
里沙さんの語り内容における「その1①~④」の史実・事実との一致率は、まぐれ当たりだとはどう考えても断定できるものではありません。何らかの形で、浅間山の噴火とタエに関わる詳細な情報を知っていなければ、前世記憶として語れるはずのないものです。
 
とりわけ、注目すべきは、
「水が止まって危ないので、上(かみ)の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」
というタエの語りでした。
語りどおりに解釈すれば、タエの人柱は、渋川村を守るためではなく、「上の村」を守るためであるということになります。
「上の村」とは常識的には、吾妻川沿いの渋川村に隣接する上流の村になるでしょう。
ちなみに、渋川村に隣接する上流の村が川島村であることが『渋川市史』巻五、資料編の記述と現地調査で確認できました。
ここには当時の被害報告書である
『「天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳(あさまやけどろおしりゆうしつじんばかおくひがいかきあげちよう)』
が収録されています。
それによると、渋川村の被害は、
「田畑少々流水入(でんばたしょうしょうりゅうすいいる) 人壱人(ひといちにん)流(ながる)」
となっているだけです。
ただし、すぐ上流の隣村の川島村(現在は渋川市川島地区)では、
「家百十三間(軒)人七十六人 馬三十六疋(ぴき)」
の被害が記載されており、まさに壊滅状態でした。
タエの人柱は、渋川村ではなく「上(かみ)の村」川島村を救うためであったのです。そして、タエの住む渋川村上郷は高台にあり、川島村(現渋川市川島地区)は低地にあることが現地調査によって確認できました。
おそらく、渋川村と川島村とは隣どうしで、人的交流が深く、親戚筋も多かったため、渋川村の村民はなんとしても洪水にやられそうな川島村を守る必要があったであろうと推測できます。
ところで、『渋川市史』巻五、資料編の「天明三年七月浅間焼泥押流失人馬家屋被害書上帳」には、村ごとに流失した人馬・家屋の被害記録が記述してありますが、各村々の記述の並び順は、吾妻川沿いの上流からでも下流からでもなく、規則性がありません。
したがって、『渋川市史巻五・資料編』を読んでも渋川村の「上の村」が川島村であることは分かりません。
私は、渋川市教育委員会に現地調査に出向いて、天明3年当時の渋川村のすぐ上流の村が川島村(現渋川市川島地区)であったことを教えていただきました。 
こうした現地調査から、仮に里沙さんが『渋川市史』巻五、資料編を読んでいたとしても、渋川村の「上の村」が川島村であり、その被害が「家百十三間(軒)人七十六人 馬三十六疋(ぴき)」という全滅状態であったことを知り得る可能性はきわめてゼロに近いと思われます。
そして、渋川村の被害はたった一人が流されていました。
もちろん、セッションのおこなわれた2005年5月以前に、渋川村の洪水被害や渋川村に隣接する上流の村を教えてほしい、などの依頼が渋川市教委あてになかったことも担当者である小林良光氏に確認しました。
こうした史実・事実調査の結果、私は前世人格タエの実在と、その語り内容の信憑性を確信せざるをえなくなりました。
仮に、里沙さんが何らかの手段で、渋川市史や天明3年7月浅間山大噴火の史実を事前に調査・入手し作話したとしても、川島村の全滅被害と渋川村のたった一人の被害(タエしか考えられない)を探り出し、そこまで入念に調査した上で、
「上の村が水にやられるので・・・私がお供えになります」
という巧妙な作話を考え出すことは到底あり得ないと思われたからです。
また、彼女にはそこまで手間暇かけて作話する必然性も利得もありません。
さらに、ベテラン催眠研究者、臨床心理学大学教授、医師など5名の見学者の目を欺いて、催眠に入ったふりを演じ、作話を語っていることを見破られないでいることは不可能です。
このことは2006年10月にアンビリ放映されたセッションビデオをご覧になれば一目瞭然です。
もちろん、彼女は、セッション以前にこうした情報を入手していたことは絶対ない、と証言しています。
繰り返しになりますが、こうした情報入手を意図的におこなった認識(記憶)が全くないことが、ポリグラフ検査で鑑定されています。ちなみに検査者は、毒物入りカレー事件の容疑者をポリグラフ鑑定した前大阪府警科学捜査研究所長の荒砂正名氏です。
(つづく)

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