2011年10月25日火曜日

「守護霊」の語り内容の検証その1

これまで紹介してきた「タエの事例」には、私独自の冒険的試みがされています。
それは、タエの死後、中間世あるいは、霊界と呼ばれる次元での「記憶」を探り、そこで顕現化した「守護霊とおぼしき存在者」との直接対話を試みたことです。
つまり、この「守護霊とおぼしき存在者」を確認し、里沙さんに「憑依」してもらい、私の疑問やタエの状況や前世記憶の真偽の証拠をめぐって、20分間というかなり長時間の直接のやりとりをおこないました。
管見するかぎり、前世療法セッションの中でこのような憑依実験をしたという報告は無いと思います。
そして、この憑依実験で、何よりも私が注目していることは、タエの(里沙さんの守護霊でもある)守護霊との対話は、けっして「前世の記憶」などではなく、今、ここで、現在進行形としておこなわれている対話であるということです。
守護霊は、里沙さんの肉体(発声器官)を借りて、私との対話に臨んでいるという解釈をするほかない現象であるということです。あるいは、里沙さんが守護霊のふりをして役割演技をしているか。
さらに言えば、タエとの対話にしても、「タエ」という前世の記憶を、里沙さんが想起してその前世記憶のイメージを語っている、という前世療法一般に流通している解釈ではなく、「タエという前世人格」が顕現化して自分の人生を語っている」と受け取ることがより自然な解釈ではないだろうかということです。
あるいは、里沙さんがタエという架空の少女の役割演技をしているか。
そして、いずれにせよ、セッション中の私の自覚は、もはや被験者里沙さんとの対話の意識はなく、顕現化した「タエ」そのものとの対話をおこなっているという意識にほかならなかったのです。
このことは、突き詰めれば、里沙さんの前世であったタエという少女、つまりタエという死者との対話である、ということになります。
タエという前世人格がどこかに存在しており、顕現化した彼女との対話をおこなう、これが私のおこなっている前世療法ではないだろうか。
やがて、こうした気づきが、その2年後に始まった私あて霊信によって啓発され結実し、「SAM前世療法」として定式化することになっていきました。そして、「タエの事例」から4年後、「ラタラジューの事例」との遭遇によって、「前世人格の顕現化現象こそ前世療法の核心である」という見解へと導かれることになったのです。
なぜなら、ラタラジューは里沙さんの学んだはずがないネパール語で会話し、会話中には現在進行形としか解釈できない一節が含まれていたからです。
もし、ラタラジューが架空の人格であり、それを里沙さんが役割演技をしたのだという唯物論的解釈では、学んだはずがない外国語で会話する、という「応答型真性異言」現象は説明不可能です。
いかにして、架空人格がネパール語で会話できるのでしょうか?
この「ラタラジューの事例」の検証は、後に詳細に述べることにします。
それでは以下、「守護霊とおぼしき存在者」が語った内容の検証を述べていきます。
① 浅間山の龍神信仰の有無について
偉大な存在者の言うように、浅間山には龍神信仰があったことが確認できました。なお、渋川市教育委員会小林良光氏によって次の情報が入手できました。
渋川市関下の吾妻川の川原には「剣磨石(けんずりいし)」という龍神信仰に関わる伝説がある。この剣磨石は直径約2メートルの丸い自然石で、真ん中に縦約 60センチ、横40センチ、深さ約90センチの穴があったという。昔、龍が雲を起こして昇天するとき、尾の先を入れてえぐったと伝えられている。ただし、剣磨石は今はなく、洪水で流されたか埋まったかは判っていない。
この渋川市関下という場所は、吾妻川と利根川の合流地点のすぐ下流に位置する。タエが人柱になったであろう場所に近いということは興味深く感じました。
② 渋川村上郷馬頭観音堂の有無について  
タエの左腕が埋まっているという「渋川村上郷の馬頭観音堂」について、渋川市教育委員会小林良光氏より次のような調査結果を入手しました。
渋川市内には馬頭観音が三百基以上ある。しかし、馬頭観音堂は存在しない。ただし、石馬に石堂をともなった馬頭観音が一基、上郷良珊寺に通じる参道からややはずれた場所に祀られている。銘文には享保十五年(1730
年)と刻んである。
タエの死亡した天明三年は、1783年ですから、この馬頭観音だとしても矛盾はありません。
また、「小さなお御堂です」と言っているので小さな石堂でも矛盾はありません。
さらに、お堂の床下を掘るのかと尋ねると、「土、下」と答えています。
石堂には床はないから直接土を掘ることになり、この答え方であっても矛盾はないことになります。
そして、観音堂は現存するとも言っています。
以上の考察から、タエの左腕が埋められたという上郷の馬頭観音堂は、良珊寺に通じる参道脇にある馬頭観音だと特定できなくはないでしょう。
ただし、良珊寺に通じる参道脇にある馬頭観音だと特定し切れないのは、その場所に土石流が起きて、タエの左腕骨はそれに埋まってしまったと言っているからです。
私は、この土石流を天明三年の吾妻川の洪水泥流のことだと思いましたが、であるなら良珊寺に通じる参道脇の馬頭観音は該当しないことになります。この地は山の手にあり、泥流(土石流)の被害を受けていないからです。もっとも、この地で山崩れなどによる小規模土石流があったと考えれば矛盾はないが、その調査までは行っていません。
また、、タエ自身が自分の左腕を切り落とされていることに何も触れていないことが、不思議と言えば不思議なことです。
すでに死を覚悟し、間もなく命そのものが龍神の供え物になるタエにとって、左腕が馬頭観音の供え物になったことは、彼女の意識にのぼることがなかったのかもしれません。
「馬が必死で暴れるので抑えるために、タエの腕を馬の口取りのために馬頭観音に捧げることになりました」という説明は、どういう状況なのかもうひとつ不明です。
(つづく)

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