2011年11月15日火曜日

生まれ変わり反論仮説その1

生まれ変わりは科学的事実である、と前のブログで結論づけました。
そして、この宣言は唯物論科学とは真っ向から対立するものです。
生まれ変わりを認めることは、ただそれだけに留まることではなく、以下のように次々に認めざるを得ない論理的帰結が生じてきます。
生まれ変わりを認めると、脳以外にも生前の記憶や個性を保って死後存続する意識体(これを魂と呼んでおきます)を認めないことには、生まれ変わりという現象の説明が完結できません。
また、臨床の意識現象の事実として、前世の人生と次の生まれ変わりとの間には時間的隔たりがあることが分かっていますから、次の生まれ変わりまでの間、魂が待機している場ないし、次元を認めないわけにはいきません。こうした魂の待機している場、次元を一般に「霊界」と呼んでいます。
生まれ変わりを認めることは、霊界と呼ぶような次元を認めることになります。あるいは、肉体を離れた魂は現界のどこかにに留まっているのかも知れません。
いずれにせよ、魂を認めることは、霊界のような次元を認めることになり、そこに存在する高級霊や低級霊と呼ばれるような霊的存在をも認めることにつながります。
ちなみに、私は、「霊」が肉体に宿ると「魂」と呼び換えると定義しています。したがって、霊とは肉体を持たない魂です。また、前世と過去世は概念が違いますが、前世も過去世もまとめて「前世」の用語に統一して用います。
さて、生まれ変わりを科学的事実として認めることは、以上のように深甚な影響を及ぼすことですから、この判断には慎重のうえにも慎重を重ねて、「タエの事例」と「ラタラジューの事例」が生まれ変わり以外に説明のできないことを立証する必要があります。
そこで、できるだけ公正な立場に立って、生まれ変わり以外に両事例を説明できる様々な仮説を検討してみたいと思います。
(1)意図的作話仮説
この仮説は、里沙さんの証言をすべて否定するうえに成り立つ仮説です。里沙さんは、前もって入念に「タエの物語」と「ラタラジューの物語」を練り上げ、セッション中には催眠に入ったふりをしてその物語を語り、しかもそのすべてをなぜか隠しているという解釈です。里沙さんの人間性そのものを否定することになるので、筆者としてはくみしえないものですが、これも一応考えておかなければなりません。通常の手段でどれだけの情報が収集できるかという検証にもなるからです。
この仮説、とくに「タエの事例」には、有利になる背景があります。
それは、2003年に出版された、立松和平の小説『浅間』の存在です。この小説は、「ゆい」という娘が主人公で、天明3年8月5日の浅間山大噴火による鎌原火砕流と、それによってほぼ全滅した鎌原村が舞台として登場しています。
「おカイコ様」という呼び方も出てきます。この小説はラジオドラマ化され、舞台公演もされています。もし、里沙さんがこの小説『浅間』を知っているとすれば、架空の人格タエの作話は、さほど困難ではないと思われます。
筆者はこの点を彼女に詳細に尋ね、読んだことも、聞いたことも、見たことも一切ないという回答を得ていますが、意図的作話仮説に立てば、それは虚偽の証言ということになります。
しかし、小説『浅間』だけでは、これらの内容を組み立てることは不可能です。「安永九年のとき13歳、三年後の天明三年のとき16歳」、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」などの情報はこの小説からは引き出せません。
特に、年号の問題はきわめて重要です。安永という年号は、中・高の歴史の教科書には出ていません。ちなみに、筆者の同僚の中学校社会科教師六人に、「安永」を知っているかを尋ねてみましたが、全員が知りませんでした。まして、安永が10年で終わり天明元年と重なっていることを知る一般人は、まずいないでしょう。「安永九年のとき13歳」で、「天明三年のとき16歳」ということを、瞬時のためらいもなく言えるということは、なかなかできるものではありません。
したがって、これだけのタエの物語が作られるためには、加えて、インターネットの検索能力が必要とされるはずです。
しかしながら、インターネットでもこれらの事項を検索することは、かなりの時間と知識が必要です。しかも、「ばと様」「浅間山の龍神信仰」「上郷馬頭観音堂」といった情報は、インターネットからは知ることができません。
これらは、『渋川市史』を読むなり、現地を訪れるなりしないと、得られない情報です。龍神信仰のことは当てずっぽうで言えるかもしれませんが、馬頭観音のこと、そして特に「ばと様」という特殊な呼び方は、現地でしか得られない情報だと思われます。
「ラタラジューの事例」にしても同様です。ナル村、コドという雑穀、ヒルの棲息、フラッシュバックしたナル村風景のスケッチなどはインターネットの検索では入手出来ません。
また、このような入念な情報収集をして作話をし、しかもそれを意図的に隠すという必然性が彼女にはありません。
そもそも彼女は、自分の病気(脊柱側湾症)の理由を知り、現世の生き方の指針を得るために、前世療法を希望したのです。
それも何らかの詐欺行為だとすることが考えられるでしょうか。
集まった研究者たちの期待に応えようとした、という見方も、そういった条件がなかった第一回に、すでにタエの記憶が断片的にであれ出ているのですから、不自然です。
加えて、筆者の多くの催眠誘導体験から見て、里沙さんが催眠に入ったふりをしていたとか、タエやラタラジューを演技をしていた、とはどうしても考えられません。
複数の研究者が見学していますし、証拠として彼女の表情を克明に写したビデオが残っていますから、まちがいなく、催眠性トランスに入っていたと断言できます。
さらに、用意されていたいかに巧みな作話であったとしても、筆者が、偉大な存在者の憑依実験をすることまでは、予想できないはずです。雷神に供える馬を鎮めるために、タエの左腕が切り落とされ、上郷の馬頭観音下に埋められているという語りをはじめとする、偉大な存在者の語りを、その場で瞬時に作話できた、とするには無理があるように思われます。
さらにまた、里沙さんが作話をして人を欺く意図があったのなら、決定的な証拠である名主「堀口吉右衛門」という名前を、なぜクロカワキチエモンと言ったのか説明できません。
筆者が検索できたように、天明三年当時の渋川村の名主が、「堀口吉右衛門」であることは、作話する過程で、彼女にも検索可能だと思われます。
それをわざわざ、名字だけ史実と食い違うようにしなければならないのか、納得できる理由が見当たらないのです。
そして、作話などしていない、という里沙さんの証言を、嘘だと疑わねばならない証拠が、何一つあがっているわけではありません。
もし、作話しているのであれば、証言書に夫婦で署名・捺印することや、二度にわたるアンビリ放映を承諾することも普通の神経ではとてもできるとは思われません。
アンビリに二度出たからといって、里沙さんに利得が何かもたらされたわけではなく、むしろ好奇の目に晒されただけです。彼女自身に生まれ変わりとしか考えられない確信があり、その事実を多くの人に知らせることへの使命感がアンビリに出ることを決断させたのです。
そして、意図的に作話のための情報収集した記憶(認識)はない、というポリグラフ検査の鑑定結果が出ています。
以上のように、意図的作話仮説は成立の可能性がないと判断できます。
(つづく)

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