2011年11月23日水曜日

生まれ変わり仮説(死後存続仮説)

(その6からのつづき)
(7)生まれ変わり(死後存続)仮説

この仮説は、里沙さんの証言を全面的に採用した場合には、もっとも支持できそうな仮説だと思われます。
そして、これまで検討してきた生まれ変わりを否定する六つの仮説の、それぞれに指摘した欠陥を、もっとも矛盾なく、解決できるものです。
生まれ変わりを認め、里沙さんの前世が、タエとラタラジューであったことを認める仮説ですから、彼女が自分の前世を語ることに、矛盾がないのは当然のことでしょう。
本当にあった前世を語るわけですから、それがセッション中の里沙さんの自然な受け答えになって現れていても、不思議ではありません。
活字になったセッション記録では伝えることのできない、語られた場面ごとの受け答えと、感情が込もった声の調子や表情は、きわめて自然なものでした。
2006年10月のアンビリで放映された「タエの事例」のセッションビデオ、2010年8月のアンビリで放映された「ラタラジュー」のセッションビデオをご覧になった方にはきっと納得できると思います。
また、これは両事例に立ち会った複数の研究者が、一様に認めている事実です。
里沙さんがあのように生々しくその場面を演じ切ったとは到底思えません。
とはいえ、「生まれ変わり仮説」を支持するためには、現行科学の知の枠組みをはずして考えなければなりません。
現行科学の知識の体系からみれば、個人の記憶が、時空を隔てた別の人格に伝達されるということは、ありえないからです。
記憶を蓄えているとされる物質である脳が、死後に消滅することは、言うまでもありません。
したがって、「生まれ変わり仮説」は、肉体の消滅後にも存続する意識体(魂とか霊と呼ばれるもの)の存在を認めないことには成り立たない仮説です。唯物論の立場に真っ向から対立せざるを得ません。
「肉体の消滅後にも何らかの意識体が存続する」という仮説は、「死後存続仮説」として、近代においても、様々に研究されています。臨死体験や、特殊能力者を通しての「霊」との交信などもその一環です。
こういった「死後存続」研究の中でも、きわめて大きな注目を浴びているのが、イアン・スティーヴンソンによる一連の「生まれ変わり」研究です。
スティーヴンソンは、世界中の、2000を超える「生まれ変わりとおぼしき事例」を、詳細かつ慎重に検証して、膨大な研究報告としてまとめています。その周到な情報収集と、あらゆる可能性を疑う公正な科学的態度は、一部の科学者からも高く評価されているようです。
ここでは「死後存続」研究やスティーヴンソンの「生まれ変わり」研究をめぐっての議論・評価に関して、深入りすることはできませんが、スティーヴンソンが、前世を語る子どもの年齢は、2歳~5歳に集中するといい、その理由は、この年齢層が、前世の記憶を思い出すことにとっては夾雑物である、現世の様々な記憶にまみれる前の段階だからだろうと説明していることは注目されます。
同様に、深い催眠中には、リラックスが深まり、現世の雑多な記憶や悩みの束縛から解放され、それらに邪魔されにくい状態になっています。したがって、筆者は、里沙さんの場合も、前世を語る子どもと同様に、催眠中には夾雑物が取り払われて、前世の記憶が甦(よみがえ)りやすくなっていたのではないかと推測しています。
しかし、生まれ変わり仮説は、語られた前世を検証するに当たって、それ以外にも考えられるすべての仮説を慎重に検討し、そのそれぞれの仮説にともなう矛盾を明らかにしたうえで、もっとも矛盾のない説明ができる仮説として、はじめて支持できるものです。里沙さんの語った二つの事例が、生まれ変わり仮説で、すべて矛盾なく説明できるかというと、次のような難点がやはり残るのです。
第一の難点は、名主クロダキチエモンが実在しないことです。前世が真実であるなら、自分の育ての父親の姓である「堀口」を、「クロダ」と間違えることは考えにくいでしょう。
また、育ての母親ハツの実在が、確認できていないことです。
第二の難点は、タエにまつわる人柱伝承、ないし類似の伝承が全く見あたらないことです。仮に偉大な存在者の言うように、「女は道具」であったとしても、村を救うために人柱となったタエの行為が、抹殺されたとは考えにくいと思われます。この大洪水による1500名余の犠牲者に紛れて村人の意識から忘れ去られたのかもしれません。
あるいは、身寄りのないタエの腕を切り落とし、人柱にした残酷さを深く恥じた村人たちが、申し合わせて口をつぐんだかもしれません。
後者は伝承が残っていないことが不自然という程度のレベルの難点ですが、前者の姓の間違いについては、致命的とも言えるかもしれません。
ただし、姓は違えどもキチエモンの名が実在していたことを、どう考えるかで評価が分かれるでしょう。まぐれ当たりに過ぎないと考えるか、何かの事情があると考えるか。
さらに、天明3年7月7日浅間山大噴火による吾妻川洪水被害記録に、タエの住む渋川村では「人一人流る」と記述されている事実と、タエの人柱との符合を偶然とみなすことができる否か。
里沙さんの語った前世のタエの記憶は真実であると考えるよりも、このように細部まで極めて手の込んだ作話を、意図的であるにしろ潜在意識であるにしろできると考えることの方が、筆者にははるかに信じ難いことのように思われますが、どうでしょうか。
「ラタラジューの事例」についての、唯一の難点は、彼の実在した伝承や文書記録が発見されていないことです。
しかし、ラタラジューがネパール語で応答的に会話したこと、被験者里沙さんがネパール語を学んだ痕跡が皆無であること、つまり応答型真性異言であることは明白です。
生まれ変わりの科学的研究からすれば、ラタラジューの実在確認の有無にかかわらず、応答型真性異言が確認されれば、それだけで生まれ変わりの最有力の証拠とされています。
したがって、筆者は、少なくとも里沙さんについては、「生まれ変わりが科学的に証明された」と宣言してよいと思います。
そして、一人の被験者に証明された生まれ変わりが、他の人々にも起きている蓋然性は高いと考えています。
これまでの記事で筆者は、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の全セッション記録とそれに基づく詳細な検証を述べてきました。
つまり、セッションで語られた事実の検証を根拠に、最終判断として「生まれ変わり仮説(死後存続仮説)」は支持しうると判断しました。
そして、筆者の判断について疑問を持つ方に対しての、反証可能性は開かれています。
ネパール語会話の分析、里沙さんの生育歴におけるネパール語との接触の有無の調査、ナル村実地調査、ポリグラフ検査などを再調査・再検査することはどなたにも開かれています。
こうして、唯物論の立場からの心理的抵抗による感情的反論ではなく、きとんとした科学的反証がなされない限り、生まれ変わりは証明された、と言う筆者の主張は覆ることはありません。

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