2012年7月25日水曜日

SAM前世療法の謎

SAM前世療法には、一般のワイス式前世療法(前世の記憶にアクセスする技法)と比較して、いくつかの解明できていない謎があります。
ワイス式前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。両方の前世療法を経験したクライアントは20名を超えています。
この両方を経験したクライアントが報告される大きな共通項は2つあります。
①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAMの場合、ワイス式と比べてさらに深い意識状態に入ったという自覚がある。
②ワイス式ではセラピストの質問に対して口頭で答えられるのが普通なのに、SAMの場合には前世人格の5人のうち4人程度は口頭で答えることができなくなる。
①について、ワイス式では、催眠学に則った心理学系催眠法の「催眠深度」を「標準催眠尺度」によって確認することなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至ってセッションがおこなわれているかが不明です。
かつて、筆者がワイス式でおこなっていた前世療法では、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策の「標準催眠尺度」を用いて確認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行し、その先の「子宮に宿る前の記憶(前世記憶)」に戻ります、という暗示をしていました。
しかし、筆者の知る限り、ワイス式体験者は、「記憶催眠」より浅い催眠体験である印象を受けます。
催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されます。
したがって、さまざまな幻覚を暗示によってつくり出すことが可能です。
また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
それで、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が意図的にイメージをつくり出しているという意識をもつことはありません。
つまり自発的イメージは架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた真実の記憶がイメージ化して現れてきたという錯覚をもつ可能性があるということです。
こうした催眠中のイメージ体験の性格を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶はセラピストの暗示によって引き起こされた「フィクション」であると口をそろえて主張します。筆者の敬愛してやまない成瀬悟策先生も、こうした立場をとっておられます。
SAM前世療法では、必ず「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを標準催眠尺度を用いて確認します。知覚催眠レベルに至ることがない深度で、「魂状態の自覚」まで遡行できないことが明らかになっているからです。そして、知覚催眠に至れば、ほぼ誰でも記憶催眠に至ることも明らかです。
したがって、SAMでは記憶催眠レベルの確認はおこないません。
記憶催眠を突き抜けて、さらに深度を深めていきます。
標準催眠尺度では測れない「魂遡行催眠」と筆者が名付けているレベルにまで深めます。
身体の自発的運動は停止し、筋肉・関節の完全な弛緩状態にもっていきます。
SAMではこうした意識状態にまで誘導するので、ワイス式より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。
②については、その解明は容易ではありません。
 
SAMの魂遡行状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は5人に1人、約20%しか口頭で話せません。5人のうち4人までが、どうしても口頭で答えることができないと答えます。
ワイス式ではこうした音声化できないことは起こりません。
ワイス式体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。
この口頭で話せないという現象は、SAMの催眠深度がワイス式よりも深く、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も弛緩し切っているので発音できないのではないか、という推測は的外れのようです。
どうも、SAMの作業仮説に理由が求めることができるのではないかと考えています。
ワイス式では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが、「前世記憶を想起し報告する」のです。
SAMでは、「顕現化した前世人格が、クライアントの身体を借りて対話する」という作業仮説でおこないます。
したがって、クライアントは、まず、前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンは、それにともなって体験することになります。
感情のみの共体験で終わる場合もあります。
療法としての治癒効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、それで問題はないと思っています。
筆者の対話相手はクライアントではなく、意識体として当時のままの感情で生きている、身体をもたない、前世人格という死者なのです。
死者である前世人格は、身体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「声帯の使い方を忘れているからどうしても声に出すことができない」という回答でした。
指やうなづくという単純な動作なら、現世の身体を借りてその動作で回答することが可能であるということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。
ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。
筆者は、クライアントの意識の中に憑依的に顕現化した死者である前世人格と、声帯にしろ指にしろクライアントの身体を借用して自己表現をする前世人格と対話するという形をとっているのです。
つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。つまり、前世人格は、現世の肉体に憑依している、と考えられます。
この現象を、筆者は「自己内憑依」と名付けています。
前世人格は、現世の身体を媒介にして、現在進行形で私と対話をしている、これがSAM前世療法の構図になっているということです。
そしてまた、このような作業仮説に基づく前世療法は、SAM前世療法以外にありません。
そして、このような信じがたい構図は、「ラタラジューの事例」によって証明されたと思っています。
里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。
里沙  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)
カルパナ  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)
里沙  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)
 つまり、前世人格ラタラジューは、今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、今、ここで、問いかけ、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈が成り立たないことを示しています。
ラタラジュー は、現世の里沙さんの身体(声帯)を借りて(自己内憑依して)、自己表現している存在です。
里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。
それは、このラタラジューのセッション後に記録されている以下の体験談からも垣間見ることができるでしょう。
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セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
 思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。
 ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの七八年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。
 はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。
 カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。
 セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
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「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」
という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」霊媒的役割を果たしたことを如実に語っていると思います。
イアン・スティーブンソンは、退行催眠中に現れた信頼できる応答型真性異言を2例あげています。
「ラタラジューの事例」を含めると、世界でこれまでたった3例の応答型真性異言しか発見されていません。ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語)」です。
ちなみに、スティーヴンソンも、私と同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」と呼んで、真性異言の話者を、クライアントとは別の人格が現れていると考えています。つまり、クライアントが前世の記憶として真性異言を語ったとは考えていません。
生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話せないのか、これは、ほんとうに大きな前世療法の謎です。 多くのクライアントは、日本人以外の前世人格が顕現化する事例を示すからです。
この謎について、里沙さんの守護霊に尋ねたところ、「非常にすぐれた霊媒体質を備えている者だけが、異言を話すことができる」という回答でした。
同様に、霊媒体質を備えたクライアントに顕現化した(自己内憑依した)前世人格が、口頭で答えることができる、と理解してよいように思われます。

2012年7月15日日曜日

7/16代々木集会に出かけるもう一つの理由

7/16集会に出かけるという前ブログ記事に800弱のアクセスがあったようです。
そこで、もう一つ、この集会に出かけようと決めた私の動機について書いてみます。
ただし、この記事に取り上げた内容の真偽は検証できることではありません。
関電、政府、民主党の大飯原発再稼働の強引なやり方について、不信感を募らせている懐疑主義者のつぶやきです。
ネットを調べてみましたが、以下に書くような、私の直感した疑惑を述べている人はいないようです。
7月5日「報道ステーション」で、この日に国会事故調の報告書が衆参議院議長に提出されたことについて事故調の黒川委員長のテレビインタビューがありました。
なぜ、7月5日の提出日であるのかについて、黒川委員長は、衆参議長の「今日にしてくれ、という要請にしたがった」、と証言していました。
私は、この7月5日という提出日設定はウラがある、という疑惑をもちました。
奇しくも、7月5日は、大飯原発が送電開始しているからです。7月1日に再稼働をする筋書きは、最初から決まっていますから、そこから計算すれば、7月5日が送電開始日になることは、6月段階ですでに読めていたはずです。
そして、事故調の報告書は、6月末にすでにまとまっており、6月30日前には提出可能であったように黒川委員長は述べていました。
ということは、7月1日の再稼働前に、事故調報告が提出され、公になっては不都合な事情があったと推測しても間違いはないように思われます。
つまり、7月1日まえに事故調報告が提出されることは、再稼働をごり押しする関電・政府・民主党にとって不都合であったということでしょう。
それもそのはず、事故調報告では、福島原発事故は天災ではなく、「人災」であると断定してあり、その理由は、規制する側の経産省保安院と、規制される側の東電とが馴れ合いと、立場の逆転があり、取るべき津波対策の機会があったにも関わらす、それを怠ったことを明確に指摘しているからです。
したがって、「人災」なのだと言い切ってあります。
さらに重大な報告は、津波到達前に、原子力プラントの配管などが、津波到達前の地震によって損壊していた可能性を否定できないとも。
東電の資料である時系列記録を精査すると、津波到達前に非常電源用ディーゼル発電機が地震によってすでに動かなくなっていた可能性が大であるようです。
東電は、プライバシーだとかの理由でこうした現場のやりとりの記録も公開しないことを決めているようです。
こんな報告書が7月1日前に提出されたとしたら、再稼働反対運動に火をつけ、その広がりは相当大規模な国民的運動へと展開した可能性があります。
関電・政府・民主党にとって、これはなんとしても都合が悪いことは明白です。
想定外の津波による原発事故原因にして幕引きを図ることができなくなるからです。地震の揺れによる原発事故の可能性があったとされると、全原発の耐震設計の見直しが必要になり、7月1日再稼働が危うくなります。
そこで、衆参議長に対して、7月5日の事故調報告書提出日設定がウラでおこなわれた可能性が大だと思うのは、私が懐疑的過ぎるのでしょうか?
関電、政府、民主党は、活断層上であろうがいったん大飯原発再稼働をしてしまえば、あとはなし崩しに他の原発再稼働ができる、とたかをくくっているとしか思えません。
また、関電は、大飯原発稼働によって、8基の火力発電所の稼働を休止するようです。燃料費がかさむという理由のようです。ということは、大飯原発再稼働なしでも、公表されてきたように電力需給は逼迫せず、計画停電は避けられるということです。したがって、大飯原発再稼働は、国民生活を守るためではなく、関電を経営破綻から守るため、ひいては大株主や関電に投資している銀行・生保など大企業の利益を守るためであることは、明白です。こんなインチキは許せません。
当面、少々電力料金が上がっても我慢するから、原発抜きで電力供給が可能なら、とりかえしのつかない放射能事故を引き起こす原発を止めてくれ、これが私の要求です。
「国民生活を守るため」という野田ポチ総理は、救いようがない人物です。毎週金曜の官邸前のデモに「大きい音がするね」と言ったとか。「声」を「音」としか認知しない、この人の認知的不感症にはおそろしくなります。
というわけで、代々木行きの決心をした次第です。

2012年7月8日日曜日

7/16代々木公園原発再稼働反対集会に出かけます

私はヒマ人しかやらないであろう生まれ変わりの研究をしているのですが、現世の社会問題から逃避しているというわけでもありません。

 私は、全共闘世代です。団塊の世代です。学生運動には参加してはいますが特定のセクトに所属したことはありません。

しかし、時の政府や官僚、大企業・大マスコミの欺瞞については常に警戒心を持ち続けてきました。

私の生まれ変わりの実証的探究は、迂遠な方法ではありますが、多くの人々が生まれ変わりの事実を認めることによって、死生観、ひいては来世にわたるであろう社会問題を、当事者性をもって考える契機になると思っています。

その結果、私の理想とする「簡素で、自給的で、喜びを中心とする生活」を末永く持続できるような日本を多くの人々が志していただけるものと考えています。

これが、私の生まれ変わりの実証的探究に取り組む基本的姿勢です。


今回は、原発関連の時事問題について触れてみます。
広瀬隆ブログ「日々雑感」【映像】7月4日広瀬隆 講演会 in文京区民センター
上記のブログを検索して、広瀬隆講演会の映像をご覧になれる方は、2時間を覚悟してご覧ください。
私自身は、広瀬氏の攻撃的言動に多少の違和感をもっていますが、彼の事実(具体的データ)をもとにした論理展開には共感を感じています。彼のこの講演内容は、私がこれまで折に触れて述べてきた推論とほぼ一致しています。その推論を再掲しておきます。
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一般国民より、政府・関電は、電力需給について圧倒的情報量を持っています。
われわれには、この夏、原発稼働なしでの電力需給のほんとうの実態は、知りようがないのです。
再稼働しないと計画停電がある、などの脅しに屈するしかありません。
今回の国会事故調報告をまともに評価すれば、大飯原発は再稼働しても、その間M8クラスの大地震がこないことを前提に、夏場限定稼働が、正常な感覚の持ち主のぎりぎりの譲歩だろうと思います。
独占企業関電は、安全より経営コストを最優先にするに決まっていますから、夏過ぎても止めるはずがありません。
そして、大株主である銀行・保険会社やら大企業が、株式の配当を求めて、再稼働の後押しをしています。また、火力に頼る電力料金の値上がりによって、利益が目減りする経団連など経済界全体の趨勢も再稼働を容認するに決まっています。
こうなったら、ほんとうに若狭湾の原発事故によって琵琶湖が汚染され、京都・大阪市民がこぞって抜き差しならない飲料水不足にでもならなければ、原発は止めないでしょう。
そういう事故が起き、故郷に住めなくなった事態になっても、原発交付金や雇用のために、要するにカネのために、再稼働を容認した地元の大飯町や福井県に同情することはありません。
福島の二の舞を覚悟で、カネを優先した判断の当然の報いだと思うからです。
そして、地震予知学がまったく無力であることは、福島で証明済みなのです。
若狭湾周辺が震源にならない大地震が起きないことを「祈って」、薄氷の上の日常生活を送るよりしかたがありません。
原発稼働をしなければ、日本経済は大打撃に陥ることは明白です。
原発一基3000億の電力会社の資産がゼロになるうえに、途方もない廃炉費用がのしかかってきます。
電力会社の収益が下がれば大株主への配当がなくなります。
さらに、電力会社が経営破綻に陥れば、電力会社に多額の融資と株を保有している銀行が経営破綻に追い込まれるかもしれません。
それ以外にも、原発稼働によって利益を得ている、社会の隅々にまで広がっている既得権益集団すべてが大打撃を受け、日本経済全体が危機的状況になるでしょう。
こうして、日本経済の現状維持のためには、原発稼働を続けなければ立ちゆかない仕組みになっていると思われます。
野田ポチ総理が、「国民生活を守るために」という言動をするウラに潜む真意は、こうしたがんじがらめの日本の経済事情への危機感にあるのではないでしょうか。
つぶれるべき東電をつぶさないのもその一環です。「日本経済の現状維持のために」が真意であり、「国民生活を守るために」は詭弁だろうと思います。
3月17日『中日新聞岐阜県版』に、以下の記事が掲載されていました。
(前略)有志が福井県美浜町の関西電力美浜原発近くの海岸から風船千個を飛ばした。当日は北北西の風が吹き、最大風速は6メートル。2時間後の午後0時40分に岐阜県可児市今渡に到達。(中略)
岐阜、愛知両県では1年の半分近くが北西の風が吹き、福井県の風下になる。(後略)
上記の「可児市今渡」とは、まさに私の住所です。濃尾平野の北東端になります。
ちなみに、可児市では3個、北隣りの美濃加茂市に5個、西隣りの各務ヶ原市に5個、岐阜市に16個など、岐阜県内で60個の風船が発見されたということです。
濃尾平野は、晩秋から早春にかけて濃尾平野の北西端に位置する伊吹山方向から伊勢湾に向かって北西の強い季節風が吹き込みます。これを「伊吹おろし」と呼びますが、この強風の影響で中部国際空港の離発着がストップしたことがあるくらいです。
バイク好きの私も、冬の伊勢湾岸道の吊り橋を渡ることは敬遠しています。
強風に煽られて転倒することに怯えたことがあるからです。
若狭湾ー琵琶湖ー米原ー関が原ー濃尾平野ー伊勢湾へと雪雲が流れてくるルートなっているのは、濃尾平野の住人にとっては常識ですが、この常識に則れば若狭湾の関電原発に重大事故があれば、放射性物質の塵が同様のルートで濃尾平野まで到達することは、容易に予想できることでした。
しかし、風速6メートルで約100km離れた可児市まで2時間で到達した風船飛来実験の結果は衝撃が強すぎました。これでは避難する時間があまりに短かすぎます。
さらに衝撃的であるのは、福井原発から50km、風の道筋にある琵琶湖までは1時間足らずで放射性物質の塵が到達する事実です。事故収束まで琵琶湖は汚染され続けるわけで、琵琶湖疎水に頼っている京都・大阪の水道水は、まず飲めなくなるということです。
機械である原発は必ず故障します。原発という機械を扱う人間は、必ず過ちを犯します。加えて大地震と大津波がいつ襲うのか分かりません。
私たちの安穏で便利な生活は、実に薄氷の上に成り立っていることを実感しました。
私は、この際、日本の全原発がすべて稼働停止のままで、個人生活や企業活動が今年の夏を乗り切れるかどうかのきわどい実験をやってみるべきだと思います。
ウラン原料は先細り、放射性廃棄物は処理の目途なし、高速増殖炉の開発の目途なし、事故が起きたらどうなるかは福島原発で実証済み、誰が考えても、原発に頼らない生活に勝ることはないのですから。
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というわけで、評論家のように机上で怒ってみてもらちが明かない自分に、腹立たしさを感じ続けていました。現実問題として、大飯原発は動いてしまったのですから。
ヒマ人だからといって生まれ変わりの研究だけをやっているわけにはいかんでしょう。
そして、ヒマ人だから、7月16日の代々木公園でおこなわれる原発再稼働反対集会にいくことにしました。野次馬。
そして、若狭湾原発事故で、故郷の濃尾平野に住めなくなって、孫たちから、ジイちゃんはそれを防ぐための行動を何かしたか、と問われたとき、ちょびっとでも言い訳をするために。
さらに、私が再び日本人に生まれ替わったときに、美しい国土であってほしいがために。
すでに、7月16日の可児6:45発の新宿行きの高速バスの予約切符を買いました。
おそらく、20万人近くが集まるものと予想できます。
政府・電力会社と利害関係のあるほとんどのマスメディアは、おそらくこの模様を正しく報道しないでしょうから、この目で集会の事実を確かめたいと思います。

2012年7月6日金曜日

通訳を介してのSAM前世療法

日本在住ブラジル人の30代男性クライアントについてのセッションです。
このクライアントは、日本語の理解が片言レベルで、SAM前世療法の暗示の言葉の理解はまずできないということでした。そこで、私の催眠誘導暗示をポルトガル語に翻訳してくださる方を同席してのセッションとなりました。
私がこのセッションについて、大きな関心をもって臨んだ理由は次の点にあります。
①通訳を介してSAM前世療法が成功するとすれば、それは私が発する日本語そのものに霊力のようなものが働いていないことの証明になる。つまり、私以外の誰であっても、一定のSAM前世療法の暗示手続きを踏めば成功することの証明になる。つまり、世界に通用する科学的な療法として成立する。そのことは、諸外国人が自国でも適用できる療法であることの証明になる。
②顕現化した前世人格(霊的存在)との対話において、クライアントの用いるポルトガル語しか理解できないのか、私の日本語も理解できるのかを確認したい。
結論として、①は成功しました。
クライアントの主訴は、人間関係を親密にしようとすると何かがそれを阻み、一歩踏み出せない深い人間不信のようなものの原因を知りたい、ということでした。
魂の自覚状態で顕現化した前世人格は、16世紀フランスの男性霊能者でした。
神託を受ける能力があり、それを権力者が民衆支配の道具に利用したようです。
権力者の都合のよい偽の神託を伝えているうちに、それを民衆が悟り、悪霊憑きとして最後はリンチによって生き埋めにされて殺された霊能者でした。
しかも、神託を信じた民衆から尊敬を受けていたにも関わらず、そうした民衆の手の平を返すような仕打ちとして、リンチを受け生き埋めにされたということでした。 
この前世人格が、人間不信の念を抱いて命を落としていたわけです。この前世人格の訴えの影響から、現世のクライアントは、根底にある人間不信の感情を免れることができなかったのでしょう。
この前世人格が、魂の表層で他の前世人格たちと友愛を結べず、孤立していたことを確認しました。
②についての結論は、前世人格には、ポルトガル語しか理解できないということでした。
霊的存在であっても、自分の依拠する現世のクライアントの用いる言語しか理解できないということです。
魂の表層に存在する前世人格どうしの間には言葉の壁がないようで、テレパシーによってコミュニケーションがとれることは、これまでのセッションから確認しています。
私は魂表層の前世人格ではありませんから、現世で肉体を器にしている私の言語は理解できず、現世のクライアントの用いている言語でしか理解できないのだろうと思われます。
当然のことながら、フランス人である前世人格が、フランス語で話すこともありませんでした。

2012年7月2日月曜日

SAM催眠学とスティーヴンソンの生まれ変わりについての見解

スティーヴンソンの生まれ変わりについての見解


私の研究の方法論は、イアン・スティーヴンソンの諸著作から学んだことを手本としています。
彼は、自らの手で集めている生まれ変わりを示す証拠が、自ら事実を物語るはずだ、と次のように繰り返し述べています。

私の見解は重要ではない。私は自分の役割は、できる限り明確に証拠を提示することにあると考えている。読者諸賢は、そうした証拠をー厳密に検討されたうえで自分なりの結論に到達する必要があるのである。
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


また、生まれ変わりという考え方は、最後に受け入れるべき解釈なので、これに替わりうる説明がすべて棄却できた後に、初めて採用すべきである、という慎重な研究方法を一貫して採用しています。

拙著、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』のタエ・ラタラジューの両事例の諸検証は、スティーヴンソンの検証方法を忠実に守っておこなったつもりです。

私が死の恐怖について、きわめて臆病な人間であったことはこのブログに書きました。
そして、死の恐怖から免れるために、宗教に救いを求めることは、生来の気質からできなかったことも正直に述べました。

こうした私だからこそ、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりの科学としての研究に強く惹かれるものを感じてきました。
彼こそ、生まれ変わりという宗教的概念を、宗教的なものから科学的探究の対象へと位置づけることに成功した先駆的科学者であると評価できると思うからです。

そこで、ここでは、彼の生まれ変わりについての見解がもっとも濃厚に述べられている『前世を記憶する子どもたち』日本共文社、1989から、その見解を紹介し、SAM催眠学の魂二層構造仮説と比較してみたいと思います。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。人格は、一人の人間がいずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているのに対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる。したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出することのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含まれているのである。
(前掲書PP.359-360)
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上記のスティーヴンソンの見解と筆者のSAM催眠学の二層構造の見解とを比較してみると、ほぼ整合するところが指摘できます。

彼の言う「中間的媒体」、「心搬体(サイコフォア)」は、SAM催眠学の「魂」と同義です。
おそらくスティーヴンソンはSoulという語にまとわりつく宗教臭を回避したのだと思われます。
このことについて彼は次のように述べています。

私は、この中間媒体を表す用語として(心を運ぶと言う意味を持つ)「心搬体(サイコフォア)」という
言葉を提案した。(私は、生まれ変わり信仰を持つ多くの宗教に、こうした中間媒体を意味する言葉があることを承知している。しかしながら、生まれ変わりに関する私たちの、依然として初歩的な科学的研究を宗教と結びつけるのを避けるため、新しい言葉を作った方がよいと考えたわけである。)
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


私は、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、取り立てて新しい概念でもないのに「心搬体」などの造語を用いることは不要だと思っています。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持するものと言えそうです。

ただし、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。
私は、私あて霊信によって、「魂を構成する要素がどのような配列になっているのか」を教えられ、催眠を道具にその真偽の検証によって、魂表層を構成する前世の人格たちを呼び出すことに成功したと思っています。

しかも、「ラタラジューの事例」によって、前世人格ラタラジューは、魂表層で、肉体はなくとも生きて活動していることを実証できたと思っています。

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世諸人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学の見解です。

つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、顕現化した前世諸人格の語りから確かめています。

さらに、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない、というスティーヴンソンの見解は、そっくりSAM催眠学の見解と同様です。

現世の私という人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層の一つとして生き続けるのであって、魂が生まれ変わるとは、「表層を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM催眠学の示す生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、SAM催眠学の見解にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層の前世人格たちから人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の諸人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、私が、故スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。

私の期待したのは、その「心搬体」と「脳」との関係についてのスティーヴンソンの考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、いずれなのでしょうか。

私の大胆な仮説を述べてみますと、すべての事例がそうではないにしても、子どもの魂表層に存在する前世人格が、顕現化(自己内憑依)し、子どもの口を通して、前世人格みずからが自分の人生を語った可能性があるのではなかろうか、ということになります。

それは、その前世を語った子どもの12事例のうち、8つの事例で、次のように話し始めた(ふるまった)とスティーヴンソンが紹介しているからです。

①ゴールパールは、「そんなものは持たない。ぼくはシャルマだ」と答え、周囲を仰天させた。(前掲書94)

②コーリスが1歳1ヶ月になったばかりの頃、母親が名前を復唱させようとしたところ、コーリスは腹立たしげに、「ぼくが誰か知ってるよね。カーコディだよ」と言った。(前掲書P98)

③日本に帰りたいという願望をよく口にし、ホームシックから膝を抱いてめそめそ泣くこともあった。また、自分の前で英米人の話が出ると、英米人に対する怒りの気持ちを露わにした。(前掲書P101)

④シャムリニーは、その町に住んでいた時代の両親の名前を挙げ、ガルトウダワのお母さんのことをよく話した。また、姉妹のことやふたりの同級生のことも語っている。(前掲書P104)

⑤ボンクチはチャムラットを殺害した犯人は許せないという態度を示し、機会があると復讐してやる、と何年か言い続けた。(前掲書P116)

⑥おまえの名前は「サムエル」だと教えようとしても、サムエルはほとんど従おうとしなかった。「ぼくはペルティだ」と言ってきかなかったのである。(前掲書P121)

⑦前世の話をもっとも頻繁にしていた頃のロバータは、時折前世の両親や自宅の記憶を全面的に残している子どもが養女にきているみたいにふるまった。(前掲書P126)

⑧3歳の頃マイクルは、全く知らないはずの人たちや出来事を知っているらしい兆候を見せ始めた。そしてある日、「キャロル・ミラー」という名前を口にして、母親を驚かせたのである。(前掲書P141)

以上のような事例の事実は、「子どもが前世の記憶を話した」というよりは、「前世人格が現れて人生の出来事を話した」と、現象学的にありのままに受け取ることのほうが、自然だと私には思われるのです。

スティーヴンソンは、応答型真性異言の「グレートフェン」の事例において、グレートフェンを顕現化した「トランス人格(前世人格)」として解釈しています。

前世を語った子どもにおいても、前世人格の顕現化の可能性をなぜ検討しなかったのか、私には不満が残ります。
子どもが語ったのは「前世の記憶」だという思い込みがあるように思われてなりません。
子どもが語ったのは「前世の記憶」の所在はいったいどこにあるのでしょうか?


とりわけ、上記③⑤⑦などのような、「態度」や「ふるまい」があらわれる事例は、魂表層に存在する「前世人格の顕現化」として受け取るのが自然だろうと思います。

スティーヴンソンが存命しているなら、是非尋ねてみたいものです。