2013年1月30日水曜日

スティーヴンソンの前世療法批判

このブログで度々出てくる故イアン・スティーヴンソンから、私は生まれ変わり研究の方法論を学びました。
彼こそ、生まれ変わりを信仰レベルから科学的研究レベルへ引き寄せた先駆者であることに疑いの余地はありません。
残念なことに、彼は「ラタラジューの事例」が出る2年前に世を去りました。
スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究の業績は、日本でも春秋社から2冊、日本教文社から2冊翻訳出版されています。
しかし、4冊どれも学術本なので、読みづらく、スピリチュアル系を称する人たちからは敬遠されているようで、読んでいる人は少数派のようです。
通俗本として研究者から評価を受けているブライアン・ワイスの『前世療法』PHP、の圧倒的人気の陰に隠れて、陰がうすいという印象です。
もっとも、スピリチュアル系の人たちは、生まれ変わりは科学的証明など不要な当然の真実だと断言する人が多く、スティーヴンソンの生まれ変わりの科学的研究などは無駄な悪あがきだと評価されている気がしないでもありません。おそらく、私のやっていることも同様に評価されているだろうと推測します。
さて、厳密な科学的方法論によって、生まれ変わり研究に打ち込んだスティーヴンソンは、前世療法による生まれ変わり研究について、どのような見解を持っていたかを紹介します。
スティーヴンソンは、前世の記憶を催眠によって意図的に探り出すことには基本的に反対の立場をとっています。
それは、彼が、前世の記憶をある程度持っていると思われる者を催眠に入れ、前世想起の実験を13件実施し、地名・人名を探り出し特定しようとした試みがすべて失敗した(『前世を記憶する子どもたち』教文社、P80)ということにあるようです。
こうして、催眠中に前世の記憶らしきものが語られたにしても、催眠によって誘発された催眠者に対する従順な状態の中では、何らかの前世の記憶らしきものを語らずにいられない衝動に駆られ、通常の方法で入手した様々な情報をつなぎ合わせて架空の人格を作り上げてしまう可能性が高いと主張します。
そして、催眠中に語られたリアルな前世の記憶が、実は架空の作話であったと検証された実例を数例あげて、催眠が過去の記憶を甦らせる有効な手段だと考えるのは誤った思いこみであって、実際には事実からほど遠いことを証明しようとしています。
こうしてスティーヴンソンは、次のように痛烈な前世療法批判を展開しています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。
私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(前掲書P7)
こうしたスティーヴンソンの批判の矛先が、ワイスやホイットンの前世療法に向けられているとは必ずしも言えないでしょうが、この批判がなされる同時期に、相次いで彼らの著作が公刊されていることも事実です。
スティーヴンソンの批判を私の立場で推測してみれば次のようなことになるでしょうか。
ワイスが『前世療法』PHP、で取り上げているキャサリンの事例でみる限り、前世記憶の信憑性の裏付けは、彼女が絶対知るはずのない三つの情報を語ったことにあるようです。
一つはワイスの父親のヘブライ名であるアブロムを言い当てたこと、もう一つはワイスの娘の名が彼女の祖父にちなんで命名されたこと、さらに一つは、生後間もなく死んだワイスの息子の死因である心臓の先天的異常を言い当てたことでした(同書P56)。
このことをもってワイスはキャサリンの語った前世の存在について、「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」(同書P61)と結んで確信しています。
しかし、この三つの事実をもって前世の存在を確信したとすれば、軽信に過ぎると思われます。
ワイスは、スティーヴンソンの著作や、デューク大学のESP(超感覚的知覚。テレパシーや透視など)研究に関する資料にも目を通したと語っています(同書P39)。
であるならば、キャサリンが超常能力(ESP)を発揮して、ワイスの脳内から三つの情報を引き出したかもしれないという仮説でも説明できることをなぜ検討しなかったのでしょうか。
そのことに触れていないことに疑問を持たざるをえません。
それ以外のキャサリンの語った前世の記憶は検証不可能なものばかりですし、マスター(「進化を遂げた精霊たち」)と呼ばれる存在を主語として語られたことについては科学的検証の俎上(そじょう)に乗せられるものではありません。
結局、ワイスの著作『前世療法』は、学問的に信頼の得られるきちんとした裏付けという観点からすれば、前世や死後存続の科学的検証に耐えられることはほとんど何も語っていないというのが私の出した結論です。
さらに同じく前世療法を扱ったホイットンの『輪廻転生』人文書院、はどうでしょうか。
ハロルドというクライアントがバイキングの前世に戻ったときに、ホイットンの求めに応じて書き記した22の語句を検証した結果、10語が事実バイキングの言語であったという記述(前掲書P211)については、前世や死後存続の状況証拠として採用できるように思われます。朗唱型真性異言であろうからです。
しかし、この事例についても、クライアントが超常能力(ESP)を発揮して書物等から情報を入手した可能性を疑うことができるわけで、そうした厳密な検討がされないままで、「状況証拠ではありますが、きわめて有力なものがそろっている現在、理屈のうえで輪廻を認めるのに特に問題はない」(前掲書P7)と述べていることには、抵抗を感じざるをえません。
結局、ワイスの著作にしてもホイットンの著作にしても、彼らの実施した前世療法の中で語られたクライアントの前世記憶の信憑性については、科学的実証性という観点からは懐疑的にならざるをえないというのが私の結論でした。
厳密な科学者であったスティーヴンソンも、おそらく私と同様の結論に至っていたから、超ESP仮説を無視した生まれ変わり実証の言説に苦々しい思いを抱いていたと推測できます。
スティーヴンソンは、生まれ変わりの科学的実証の前に立ちはだかっていた最後の壁、超ESP仮説打破に立ち向かって苦闘を続けた研究者であるからです。
前世記憶の真偽を追究するために、膨大な労力と綿密な検証作業を長年積み上げてきたスティーヴンソンにとって、催眠中に語られた前世の記憶を厳密な科学的検証にかけないまま、クライアントの症状改善を理由に、安易に認めてしまう前世療法が、苦々しく思えることは当然であろうと私には素直に共感できました。
ただし、彼は、催眠中に語られる前世の記憶をすべて無意味だとしているわけではありません。事例の中には、彼自身の検証の結果、通常の方法では入手できない情報が少数ながら存在することも認めています。彼のこうした見解に、科学者スティーヴンソンの柔軟な態度を感じ、共感できるものを感じました。
スティーヴンソンは、『前世を記憶する子どもたち2』で、「私は、自らの手で調べた応答型真性異言の2例が催眠中に起こったという事実を忘れることができない。このことから私は、催眠を使った研究を決して非難することができなくなった」と、『前世を記憶する子どもたち』の中で展開した前世療法への批判をいくぶん修正しています。
この2例の催眠中に起きた応答型真性異言こそ、スウェーデン人の男性前世人格「イェンセンの事例」とドイツ人少女の前世人格「グレートヒェンの事例」です。両事例ともアメリカ人女性が被験者で、それぞれ学んでいないことが検証されたスウェーデン語、ドイツ語で応答的会話をしたという事例です。
私の発表している「ラタラジューの事例」は、このスティーヴンソンの研究の延長線上に位置づいています。
おそらくこのブログを読んでくださっている方は、「生まれ変わりの凡百の言説より、たった一つの確実な証拠」を重んじる立場の人が多いだろうと推察します。
でなければ、超ESP仮説がどうのこうの、技能は暗黙知であるなど、厳密さを求めるわずらわしい議論にこだわる私の記事などにアクセスされるはずがないと思っています。

2013年1月29日火曜日

真性異言の検証と公にするむつかしさ

私のもとへ、覚醒中に異言らしきことばを話せるので検証してほしい、という依頼がたまに舞い込みます。
私は、原則としてこうした依頼をお断りしています。
その理由は、仮にその言語が真性異言だと証明できても、応答型真性異言でなく、単に異言を発音するだけであれば超ESP仮説が適用されるので、厳密な意味で生まれ変わりの科学的証拠とは判断できないからです。

また、そうした現象は、本人以外の霊の憑依現象が疑われ、その語りの主体が前世人格なのか憑依霊なのか判別が困難であるからです。
そのうえ、学んでいない外国の単語や文章の一節を繰り返し発音できたとしても、それは「技能」とは言えず「情報」として扱われますから、万能の透視能力やテレバシー(超ESP)を用いて入手した、という疑いを払拭できません。
こうした真性異言を単に発音するだけの場合を「朗唱型真性異言」と呼びます。

また、私の検証体験でも、催眠中に起こった朗唱型真性異言だと思われる事例では、流暢にそれらしく話される異言が、検証の結果、まったくのでたらめであったということが3例ありました。
この事例は、催眠学で呼ばれる「役割演技」、つまり、無意識のうちに外国人の役割演技をおこない、自分のイメージにある外国のそれらしき発音を真似た言語を創造的に発音したということでしょう。
催眠中には創造活動が活性化することが分かっていますから当然起こりうる現象です。

こうした体験がありますから、学んでいない外国語らしき言語で話せるという異言現象が起きたとしても、真性異言現象だと判断できることは稀だと思っています。
宇宙語であるとかムー大陸のことばであるとかを話せると言ってくる方もいますが、そうした地球上にない言語は、そもそも真偽の検証が不可能で、生まれ変わりの科学としての検証対象になりません。

さて、超ESPによっても絶対入手できないのは「技能」です。
いかに優れた超能力を用いても技能は入手できません。
練習を必須条件とする技能は、練習抜きに獲得できないからです。
ヴァイオリンに触ったこともない超能力者が、超能力によって、練習を必要とするヴァイオリンの名曲を演奏できることはありえません。
同様に、応答的な会話も練習抜きに話せることはありません。
技能は暗黙知と考えられ、本来、ことばで伝達することは不可能とされています。
ことばで伝達可能なことなら、ESPによって入手可能です。
したがって、学んだことのない外国語で、練習の不可欠な応答的な会話ができる現象が、「応答型真性異言」と呼ばれ、それは超ESP仮説による説明を不可能にしますから、最終的説明仮説、つまり、生まれ変わり仮説を実証する最有力の科学的証拠だと認められているわけです。

しかし、応答型真性異言は容易に発現するものではありません。とりわけ、催眠中に起こった応答型真性異言で、公になっている事例はイアン・スティーヴンソンの発表している3例とSPR(心霊研究協会)の検証した1例にすぎません。それも1980年代で途切れています。
私の知る限り、21世紀になって最初に「応答型真性異言」として公になったのは2009年の「ラタラジューの事例」です。
しかも、スティーヴンソンの発表している三つの事例は、応答型真性異言で対話中の録音は残されていても、映像は残されていません。
証拠映像が残されたという点でも、「ラタラジューの事例」は、世界初の画期的な応答型真性異言事例だと思っています。

しかし、「ラタラジューの事例」の検証と公表には、いくつかのクリアすべき以下のような多くの困難がありました。

①被験者里沙さんにセッション証拠撮影の許可をもらうこと。

②セッションにヤラセや欺瞞の疑いを持たれぬために、社会的地位があり信用度の高い複数の同席者を確保すること。

③ネパール語を母語とする知的に優れたネパール人対話者を確保すること。

④ネパール語会話をローマ字表記にし、それを日本語に翻訳できる学識あるネパール人協力者を複数確保すること。

⑤里沙さんがネパール語を学んでいない証明のために、小・中・高・大学時代の友人、結婚前、後の友人、家族等彼女のプライバシーの徹底的身辺調査の同意を得ること。

⑥ラタラジューの語りのナル村の状況の真偽を検証するために、学識あるネパール人、できれば博士号を持ち、日本語でメールのやりとり可能なネパール人にナル村現地調査を依頼すること。

⑦里沙さんとご主人にポリグラフ(嘘発見器)検査の同意を得ること。

⑧権威あるポリグラフ検査者を探し、事情を納得してもらったうえで検査の協力を得ること。

⑨学会発表、出版、それにともなうTV出演の同意などを、本人、ご主人から得ること。

⑩TV出演によるいわれのない中傷、陰口も予測し、それに耐えてもらうことの家族の同意を得ること。

ざっと列挙しただけで、以上のような困難を乗り越えなければなりませんでした。
とりわけ、⑥⑧の調査・検査を含めて50万円ほどの総費用がかかりました。
真性異言の科学的検証を厳密におこなうためには、当然のことながら数十万円の費用を覚悟しなければなりません。科学的検証のために先立つものはお金なのです。

また、予測した⑩は予測どおりに起きています。
アンビリスタッフがワゴン車を里沙さん宅の前に乗り付け、撮影機材を持ち込むのを見た近所の人が、里沙さん宅で新聞沙汰になる事件が起きたと勘違いし、ついには自治会長まで事情を探りに訪問する騒ぎになりました。

また、アンビリを視聴したご近所の口から、よくもまあネパール語を練習して上手に演技したものだ、そんなことしてまで有名になりたいのか、などのヤラセだという陰口が聞こえてきたということです。

また、アンビリ視聴した霊能者を自称する人物は、自身のブログで、あることないことを立証ぬきで書き込んで、里沙さんが不幸にさらされるようなことを予言しています。

これまでにない新しい何かを思い切ってすると、必ず心ない誹謗中傷を免れられない、ということです。

「ラタラジューの事例」の科学的検証とその公開は、里沙さんおよび、ご家族の使命感と犠牲なしにはけっして公になることはなかったのです。


2013年1月25日金曜日

閑話休題その2

一つ目の話題は、里沙さんが前回話題にしたラップ音を聞いた友人とは別の友人が、貸し出した今回ドキュメンタリー映画『催眠・魂・生まれ変わりの真実』を自宅で夜中に視聴中、その友人の家の階段で明確に確認できるミシッ、ミシッというかなりの音量のラップ音が続いたという報告です。この別の友人も、怖くなって電話をしてきたということです。二人の友人に、立て続けてラップ音が聞こえたということは、この映画に対する霊界からの何らかのメッセージかもしれません。
映画視聴中にラップ音を聞いた二人の友人に共通するのは、二人ともにかなり霊感の高いことだそうです。
私は、霊感にはまったくの不感症ですから、真夜中の視聴中せいぜい微かな風鈴の音らしいものを聞いたぐらいです。かわいらしいものです(笑)。
二つ目の話題は、映画に対する私の地元岐阜県可児市教委担当者の反応です。
本日、監督の伊藤泰史さんと可児市教委の映画後援をお願いするため、13時から90分間、二人の教委担当者と話し合いを持ちました。
私の本音は、市教委の後援など特に不要、ネットでPRすれば十分だと思っていましたが、市教委の後援を取り付けないと映画ポスターを公民館など公共施設での掲示を許可されないということで、伊藤氏の要請で私も市教委との後援取り付け交渉に出かけたということです。伊藤氏は今日で3回目の陳情でした。
後援を渋る市教委担当者の理由の概要は次のような内容でした。
映画の内容について、生まれ変わりの科学的証明をしようとしている映像で担当者個人としては驚くとともに納得できた。
しかし、世間一般の過半数が、生まれ変わりを信じていない現状で、市教委がこの映画に後援を認めることは、市教委として生まれ変わりを公式に認めたのだという誤解が生ずる。
生まれ変わりの事実を認めることは、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる。したがって、市教委として後援を許可することは時期尚早であり許可できない。八割くらいの人々が生まれ変わりを認めるときまで後援を待ったらどうか。
(ちなみに90分間のやりとりはICレコーダーに証拠として録音してあります)
八割の人々が生まれ変わりを認めている状況なら、この映画を制作し公開する意味も、私の生まれ変わり研究の意味もほとんどないわけで、まったくおはなしになりません。
こうした回答に透けて見えるのは、生まれ変わりを認めざるえない映画でも、少しでも後援許可への責任を問われる畏れがあるなら、後援はなんとしても避けたい、という姿勢です。
後援を出したあとの思わぬ災難はどうか勘弁してほしい、という本音です。
私は、20年前に可児市教委教育研究所の主任指導主事として2年間勤務している恩義もあり、行政官としての担当者の苦しい胸の内に十分共感できましたから、後援許可の再検討の約束を取りつけたところで交渉を打ち切りました。
再検討されても、後援はまず却下されるでしょう。
研究とは、素朴に言って、今まで誰も言わなかった新しいことを主張することだと思います。ライフワークとしてやるからには、今までの理論体系をゆるがすような新しいことを主張していきたいものだと思ってやってきました。
SAM前世療法による生まれ変わりの科学的証明の研究は、上に書いたことのささやかな実践です。
そして、現時点での集大成が今回制作した映画というわけです。
新しい主張は、必然的にそれまでの主張への批判とならざるをえません。
それまでの主張への疑問・問題意識が研究の原動力であるからです。
したがって、研究によって新しい主張ができるレベルまで至ったと判断し、主張を公にすることは、それまで主張されたことを公然と批判し反論することにほかなりません。
今回の映画は、魂・生まれ変わり・霊的存在を濃厚に示す映像証拠を提示し、証拠の事実をして語らしめる、という立場で制作してあります。
それは、唯物論に真っ向から対立する立場の明確な表明です。
そして、いかに唯物論に反する事実でも、事実の示すことは認めるしかありません。
また、生まれ変わりや霊的存在についての実証を示すことなく、それらについてのひたすら信仰を説く言説を業務独占してきた宗教者、霊能者と呼ばれる職業の業務独占領域への侵害になるかもしれません。
生まれ変わりは、信仰や信じるというレベルのことではなく、証拠をもって科学的事実レベルに引き寄せることができた、と宣言しているからです。
実際、ある宗教団体の信者の方、霊能者を称する方から、私の証明しようとやっていることは神の禁じているタブーに対する反逆であり、神への冒涜であるから、必ずおそろしい報いを受けることになるぞ、と警告を受けています。
生まれ変わりを信仰レベルにとどめておくことが、業務独占には何かと都合がいいからでしょう。
神の怒りをかって神に罰せられるのであれば甘んじて受けるのがこの研究の宿命だと観念しますが、神の名を騙る狂信者に殺されるのはご免こうむりたいと思います。
私は本来死ぬことが何よりこわいと思い続けてきた軟弱者ですから、狂信者から黙らんと殺すぞと脅迫されれば、きっと変節して主張を沈黙することになるでしょう。
プラグマティズムの教育哲学者、J.デューイは、革命家に対する次のような批判をしています。
習慣の安定性と力とを知っている人は、急激な全面的な社会変化を企図したり、あるいは予言したりすることをためらうであろう。社会革命は、外的な諸習慣や、法律上、政治上の諸制度については突如たる深い変更を生ぜしめるかもしれない。しかし、これらの制度の背後にある諸習慣、また客観的諸条件によって否応なしに形作られてきた諸習慣、すなわち思想と感情の諸習慣は、必ずしも容易に変化されないものである。
人間生活のうちにある遅れ(lag)の力は巨大である。
デューイの言う社会革命とはマルクス主義による暴力的社会革命を指しているのですが、私の今回の映画も、世間一般の価値観をひっくりかえす重大事を引き起こすことになる、と言った市教委担当者から見れば革命的な映画ということかもしれません。
そういう評価を受けたことは素直にうれしく思いますが、この映画によって、唯物論思想とそれによる感情の諸習慣は、デューイの指摘にあるように容易に変化するものとは思われません。
焦らず、倦まず、弛まず、怯まず、生まれ変わりの事実を提示していきたいと思います。

2013年1月16日水曜日

閑話休題

今年に入ってから映画上映のお知らせを記事にしただけで、このブログの本題に触れる記事を載せていません。
といっても、生まれ変わりの探究において、そうそう目新しい話題提供ができるわけでもありません。
そして、昨日このサイトの訪問者数を確認して驚きました。
1月12日に6,070回のアクセス数がカウントされていたからです。
その後も1,000を越えるアクセスが今日まで3日間続いています。
普段は200~400アクセスで推移してきました。
 
この異変は、きっと多くの読者を獲得しておいでになる複数のブロガーが、私の記事を拡散してくださったからだと推測しています。それらブロガーの皆様には、この場を借りてあつくお礼申しあげます。
そしてこのお礼は、セッション中に憑依した私の守護霊を名乗る存在、降臨したと思われる神を名乗る存在からのお礼でもあります。それら存在が、昨年末より、「霊的真理を広める仕事を急げ」というメッセージを告げており、そのための手段として今回の映画制作を急ぎ、上映会に漕ぎつけたという事情があるからです。
メッセージを告げた神や霊的存在が実在しているとすれば、その実在を映像で示そうと企画した上映会案内記事を拡散していただいたことに、神および高級霊がお喜びにならないはずがないと思います。合掌。
さて、おもしろい話をひとつ。
昨日、今回のドキュメンタリー映画の主人公ともいえる里沙さんより奇妙な電話がありました。
「『催眠・魂・生まれ変わりの真実』の上映会で、会場の照明が点らなかったりする超常現象が起きませんでしたか」という電話です。
なぜ、このような問い合わせ電話があったかの理由がおもしろい。
里沙さんには、検閲用映画DVDを渡してありましたが、彼女の友人夫婦にせがまれてそれを貸し出したそうです。
友人夫婦は、新築まもない自宅で、深夜におよぶ映画視聴をしました。ところが、前編「タエの事例」のセッション映像が始まったころから、窓ガラスがカタカタ鳴り始め、後編「ラタラジューの事例」に至って、カタカタ鳴る現象に加えて柱がギシギシ鳴り始め、友人夫婦は怖くなって、里沙さんに電話で報告してきたということです。新築の家で、このような奇妙な現象が起こるとは考えられない、この映画には霊的な何かがあるのではないか、という問い合わせだったそうです。
この話が本当であれば、おそらくポルターガイストと呼ばれている超常現象だと思われます。
そこで里沙さんは、上映会場でなにか異変があったかを尋ねて電話をしてきたというわけです。
幸か不幸か、1月6日の封切り会場では、そのような超常現象の報告は聞いていません。
もっとも私の知らないところで、会場トイレの照明が消えたり、トイレの水が流れなかったりする不思議現象があったかもしれません(笑)。
私は、この映画の字幕校正のために、深夜何度も視聴してきましたが、超常現象らしきことは何も起きていません。それらしいことといえば、真夜中に視聴中、風鈴の音のような涼やかな微かな音が断続的に聞こえたことはあります。真冬・真夜中の風鈴とは風流じゃのう、と思ったことを覚えています。そういえば、我が家の軒下には風鈴などがぶら下げてありません。空耳であったのかもしれません。
1月20日の上映会では、注意をはらって超常現象の有無を観察してみます。