2013年5月29日水曜日

前世人格の存在の座はどこか

SAM前世療法では、魂の表層は前世のものたちによって構成されており、それらのものたちが潜在意識を作り出している、という作業仮説にしたがって、潜在意識をひたすら深め、それを作り出している源である魂の自覚まで導きます。この作業仮説は、私が考えたことではなく、私あて霊信が告げてきたことが基盤となっています。
魂状態の自覚に至ったことが確認できれば、魂の表層に存在し、主訴に関わっている前世のものを呼び出します。
こうして私は、顕現化した前世の人格と対話し、その苦しみや悲しみを共感的に傾聴します。
現世のクライアントの顕在意識(モニター意識)は、私と前世人格との対話を傍聴しています。
私と前世人格の対話、それを傍聴している現世の顕在意識という三者的構図が、これまでの心理療法になかったSAM前世療法独自・固有のセッション構造といえるでしょう。
前世の人格が苦悩を語ることによって癒しを得ると同時に、傍聴している現世のクライアントの主訴も連動して改善が起こる、というのがSAM前世療法による暫定的治療仮説です。
このことつまり、こうした治療仮説そのものは、通常のカウンセリングと何ら変わりがないものです。
ただカウンセリングの対象が生身の人間ではなく、肉体を持たない前世人格(死者)であるという点に違いがあるだけです。
したがって、カウンセラーは、クライアントと面接しているのではなく、クライアントの前世の人格と面接しているのだ、という明確な自覚のもとでセッションを進めることになります。
非常に信じがたい奇異なカウンセリングに映るでしょうが、SAM前世療法の作業仮説からしてみれば、当然の論理的帰結であり、クライアントの意識現象として現れる確かな事実です。
カウンセラーは、数百年前に人生を終え、当時のままの苦しみや悲しみの感情に苦悩しながら、今も魂の表層に生き続けている前世の人格(死者)と対面するというわけです。
ラタラジュー人格もこうして顕現化し、ネパール語で会話したのです。
ラタラジューが真性異言で会話した事実は、彼が、けっして里沙さんの作り出した架空の人格ではないことを証明しています。
架空の人格が応答型真性異言を話せるはずがありません。
ラタラジューはネパール人として生きたことがあるからこそ、ネパール語で会話できたのだと考えざるをえません。
こうしたことから、魂の表層が前世人格存在の座であり、今も前世の人格が生きて存在している、という作業仮説は正しい可能性があると思われます。
その一つの証拠が、ラタラジューとカルパナさんの次のような現在進行形のネパール語会話です。
※ CL : ラタラジュー人格(被験者里沙)   KA : ネパール語話者カルパナ
CL  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)
KA  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)
CL  O. ma Nepali.
   (ああ、私もネパール人です)
この会話のラタラジュー(CL)という顕現化した前世人格は、カルパナさんに対して、明らかに、今、ここで、現在進行形で問いかけています。
つまり、前世人格ラタラジューは、魂表層で今も生きており、それが顕現化して問いかけているとしか考えられません。
こうした事実からも、被験者里沙さんが、ラタラジューであった前世の記憶を想起して語っている、という解釈は成り立たないのです。
応答型真性異言現象においては、それを会話した当事者の「前世の記憶」ではないというほかありません。
さて、私と同じく応答型真性異言の二つの事例を20年ほど前に出版しているイアン・スティーヴンソンは、この現象を次のように述べています。
スティーヴンソンも、応答型真性異言「グレートヒェンの事例」において、真性異言で会話したグレートヒェンを名乗るドイツ人少女を「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』11頁)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書9頁)と呼んでいます。
さすがにスティーヴンソンも、応答型真性異言で会話している現象は、当事者の記憶想起としてではなく、当事者とは別の、トランス人格(前世人格)が顕現化して会話している、ととらえざるをえなかったのです。
つまり、催眠下で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性と霊媒能力を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが顕現化したと推測してよいように思われます。 
 
こうした海外で発見された催眠下であらわれた2例の応答型真性異言と考え合わせると、前世人格の存在する座は魂の表層である、とするSAM前世療法の作業仮説の検証は、ますます意味深い作業になると思っています。
なぜならば、スティーヴンソンは、呼び出された「トランス人格(前世人格)」が真性異言を話すことまでは言及しても、その「トランス人格(前世人格)」の存在する座はいったいどこにあるのかまではっきり言及しようとしていません。
ただし、彼は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォ)』と呼ぶことにしたらどうか」(『前世を記憶する子どもたち』359頁)とまでは提唱しています。
こうした文脈から、おそらくスティーヴンソンは、心搬体(サイコフォ)がトランス人格存在の座であると推測していると思われます。心搬体(サイコフォとは、いわゆる魂と同義です。「魂」という用語にまつわる宗教色を避けるために、「心搬体(サイコフォ)」という新しい中立的用語を提唱しているわけです。
トランス人格存在の座を明確に述べようとしないのは、実証を重んじる科学者としてのスティーヴンソンの慎重な自制からでしょうが、SAM前世療法の作業仮説は、それ以上言及されなかったトランス人格の存在する座までも検証しようとしています。
ところでスティーヴンソンは、次のような謎とその謎解きを次のように述べています。
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「私が特に解明したいと考えている謎に、イェンセンやグレートヒェンが母語(注 スウェーデン語とドイツ語)でおこなわれた質問と同じく、英語でおこなわれた質問に対しても、それぞれの母語で答えることができるほど英語をなぜ理解できたのかという問題がある。イェンセンとグレートヒェンが、かつてこの世に生を享けていたとして、母語以外の言葉を知っていたと推定することはできない。二人は、したがって、自分たちが存在の基盤としている中心人物(注 英語を母語とする被験者のこと)から英語の理解力を引き出したに違いないのである」(『前世の言葉を話す人々』235頁)。
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このことは、ラタラジューにも当てはまる謎です。
なぜ、ネパール人前世人格ラタラジューが、知っているはずのない日本語を理解し、私と対話できるのかという謎です。
これはラタラジューが顕現化した第一回セッションからこだわり続けていた謎でした。
そこで、実験セッションの始めに「ラタラジューはネパール人です。それなのに日本語が分かるということは、翻訳、仲立ちをしているのは魂の表層の『現世のもの』と考えてよろしいですか? 」という質問を里沙さんの守護霊にしたのです。
これに対して、里沙さんの守護霊とおぼしき存在も、そのとおりだ、と認めています。
またこの存在は、魂レベルでは言語の壁がなくなり自然に分かり合える、とも告げています。
つまり、「魂の二層構造仮説」のように、魂の実在を仮定すれば、スティーヴンソンの「特に解明したい謎」に解答が出せるかもしれないということです。
魂の表層に存在し、ラタラジューとつながっている「現世のもの(現世の人格)」が通訳をしているという説明ができることになるのです。

2013年5月12日日曜日

臨死体験と魂の問題

最近、http://sankei.jp.msn.com/wired/news/130502/wir13050213270001-n1.htmという記事を紹介してもらいました。
下記にこの記事の当事者であるパーニア氏と、そのインタビュー記事の抜粋を紹介します。
パーニア氏は、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校付属病院の医師で、同大学の蘇生法研究プログラムの主任。北米と欧州の25病院で臨死体験を記録する「Consciousness Project Human」のAWARE調査の責任者として、この現象を科学的に研究している人物である。

 パーニア氏はこのほど、新しい著作『Erasing Death: The Science That Is Rewriting the Boundaries Between Life and Death(死を消去する:生と死の境界を書き換える科学)』を刊行した。

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パーニア氏:
人が死ぬと、血液の脳への流入がなくなります。血液の流入が一定のレベルを下回ると、電気活動は生じ得ません。脳に何らかの隠された領域があり、ほかのすべてが機能しなくなってもそれが活動していると考えるには、大変な想像力が必要です。

 このような観察から、脳と心の相互作用に関する現在の概念に疑問が生じます。従来の考え方は、脳内の電気化学的なプロセスが意識につながっているというものです。死後に電気化学プロセスが起きないことは証明ができるので、この考え方はもう正確ではないのかもしれません。

 脳の中には、われわれが発見していない、意識を説明する何かがあるのかもしれません。あるいは、意識は脳とは別個の存在なのかもしれません


WIRED:それは、意識の超自然的な説明に近いように聞こえますが。


パーニア氏:最高に頭が柔軟で客観的な科学者は、われわれに限界があることを知っています。現在の科学では説明ができないという理由で、迷信だとか、間違っているだとかいうことにはなりません。かつて電磁気など、当時は見ることも測定することもできなかったさまざまな力が発見されたとき、多くの科学者がこれを馬鹿にしました。

 科学者は自我が脳のプロセスであると考えるようになっていますが、脳内の細胞がどのようにして人間の思考になりうるのかを証明した実験は、まだ存在していません

 人間の精神と意識は、電磁気学で扱われるような、脳と相互作用する非常に微小なタイプの力ではあるが、必ずしも脳によって生み出されるわけではない、ということなのかもしれません。これらのことはまだまったくわかっていないのです。


WIRED:ただ、最近はfMRIによる脳画像と、感情や思考などの意識状態の関連性が研究されたりしていますよね。脳を見ることで、その人が何を見ているかや、何を夢見ているかがわかるという研究もあります。


パーニア氏:細胞の活動が心を生み出すのか、それとも、心が細胞の活動を生み出すのか。これは卵が先かニワトリが先かというような問題です。(fMRIと意識状態の関連性などの観察から)細胞が思考を生み出すことを示唆していると結論する試みがあります。「これが憂鬱の状態で、これが幸せの状態」というわけです。しかし、それは関連性に過ぎず、因果関係ではありません。その理論に従えば、脳内の活動が停止したあとに、周囲の物事を見たとか聞いたとかいう報告はないはずなのです。脳内の活動が停止したあとも意識を持ち得るのだとすれば、おそらくは、わたしたちの理論はまだ完成していないということが示されているのです。

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さて、「生まれ変わりの実証的探究」の私の立場からすれば、上記パーニア氏の太字部分の医学的見解は、脳以外に意識の存在を示唆しているように思われます。彼は、「現在はっきりとしているのは、(脳死後も)人間の意識が消滅するわけではないということだ」とまで述べているようです。

この見解は、「心・脳二元論」という立場です。

過去にも、W・ペンフィールド、J・エックルズ、R・スペリーなどノーベル賞級の大脳科学者が自らの実験研究の結果、晩年になって「心・脳二元論」を表明しています。

催眠研究者成瀬悟策九大名誉教授・医博も、晩年になって、「脳は心の家来です」と述べています。


SAM前世療法の大前提は、「心・脳二元論」仮説ですから、臨床医学者パーニア氏の最新の上記見解は、我が意を得たりと言いたいところです。

しかし、厳密に検討すると、手放しで喜べるほど、ことは単純ではないようです。


脳死臨床の場で、脳が本当に死んだかどうかを、直接的に観察できる方法は現在ありません。

したがって、「脳が生きて活動しているならこういう現象が観察されるはずだ」ということをいろいろ見ていって、そういった現象がすべて観察されないからこの脳は死んでいるだろう」と推論するわけです。

これが脳死判定の方法論的論理構造です。しかし、「脳が生きている」けれども、「脳の機能発現が観察されない」こともあるのです。

脳が活発に活動しているときには、脳内でものすごい数のパルスが飛び交っており、その影響で頭皮の上に微弱な電流が生じます。これを測定したものが脳波です。つまり、脳波は、脳の電気的活動の有無を直接測定するものではないのです。したがって、脳細胞レベルでは微弱な電気活動がまだ残っている段階でも、フラットな脳波が現れるといわけです。

脳波がフラットの状態であるから脳死である、つまり、脳の機能は停止してる、にもかかわらず意識現象が生じた、だから、意識は死後も消滅しない、という論理は成り立たないのです。

脳波がフラットであっても、脳は生きており、意識がある可能性を排除できないのです。

脳死をほぼ確実に判定できるのは、一定時間の脳血流停止を確認することとされています。

その確認方法として脳の酸素消費を測定する脳代謝検査があります。

細胞は生きている限り、酸素を消費し、ブドウ糖を消費します。細胞が死ねばどちらも消費しません。

それで、理論的には、脳代謝測定が脳死決定の最終的手段とされています。


はたして、パーニア氏は、脳代謝検査などで、一定時間の脳血流停止確認後、その患者の脳血流停止中の意識があったことをもって、「脳死後も意識は消滅するわけではない」と述べているのでしょうか。

それはまずありえないでしょう。脳細胞の血流が一定時間停止すれば脳細胞が死滅し、脳の復活はありえないので、そもそも脳血流停止中の意識内容を話すことができるはずがないからです。


このように、臨死体験によって、脳とは別に、消滅しない意識(魂)の存在を証明することにも、どうやら「挫折の法則」がはたらいているような気がします。


臨死体験研究者の多くは、医師や心理学者であり、それまでサイキカル・リサーチやスピリチュアリズムが蓄積してきた知見を、知らないかあるいは無視しています。

臨死体験研究の本をいくつも翻訳している超心理学者の笠原敏雄氏は、研究者たちのそうした態度を、先行業績を参照するという科学的手続きを無視したものだ、と指摘してます。

このように、これまでの多くの臨死体験研究では、実証性ということが十分に考慮されているとは思われません。

サイキカル・リサーチ(超心理学)を踏まえたオシスらの研究ですら、超ESP仮説への取り組みが不十分で、理論上の中心主題は残されたままだとしています。臨死体験と死後存続仮説との関係という中心的問題を明らかにすることに対しては、大きな貢献はしていないと私には思えます。


そもそも、臨死体験とは、体験者が生き返っているわけですから、「真の死後の体験」だということには矛盾があります。

呼吸停止・心停止であっても、脳は生きていただろうから、それは脳内現象であり、せいぜい体脱体験と同様のものに過ぎない、という説明が成り立ちます。

脳活動(脳幹活動まで含む)が完全に停止した状態で体験された「パム・レイノルズのケース」(セイボム『続「あの世」からの帰還』)でも、厳密に理論的に検証すると、完璧であるわけではありません。

そして、脳内現象を否定できる、脳細胞が死滅したことが確認された後の臨死体験はありえません。

脳細胞の死滅は、脳の復活不可能な完全な脳死であるからです。臨死体験が報告できるはずがありません。


このように臨死体験の実証的側面は、非常に脆弱なのです。
実証性を別にして考えても、臨死体験には限界があります。仮に、臨死体験者が、死後の世界の入り口まで覗いたとしても、それはあくまで「かいま見た」程度のものでしかありません。前世療法の本をホイットンとともにまとめたライターは、臨死体験を、「国境に足止めされた海外特派員がそこからその国の事情を報告する」ようなものだと表現しています。