2013年2月21日木曜日

タエとラタラジューは前世人格か憑依霊か?

これまでに、可児市・東京・多摩市等で『催眠・魂・生まれ変わりの真実』が上映され、数百人の視聴者がおいでになります。なお、今後各地の上映計画は、上記映画題名で検索していただければ分かります。横浜・名古屋・福岡・札幌で計画されているようです。

この映画を視聴され「タエの事例」、「ラタラジューの事例」のフルセッションをご覧になった人は、そのセッション映像が、あらかじめ計画されたヤラセであるとか、被験者里沙さんの演技であるとか、巧妙に捏造されたものだと疑う人はまずいないだろうと思われます。

両セッションには、医学博士号を持つ医師、大学教授など社会的地位のある複数の見学者が
同席していますし、里沙さんへのポリグラフ検査で、彼女が事前に意図的にタエとラタラジューの語りに関する情報を入手した記憶は全くない、という鑑定結果が出ています。
さらに、「ラタラジューの事例」は、日本生命情報科学会での発表、およびイアン・スティーヴンソンの後継者であるバージニア大学ジム・タッカー教授に報告がされています。捏造したセッションであるなら、このような公言はできません。かならず見破られるに決まっているからです。
したがって、私は、タエ→ラタラジュー→里沙という順に、「魂が次々に肉体を換えて宿り続けている」ことが、検証の結果推定できうると考えています。里沙さんにおいては、魂の生まれ変わりが立証できた、と思っています。
ただし、このことは、タエとラタラジューが、魂表層に存在する「前世人格」であるという前提に基づくものであって、タエとラタラジューが里沙さんの前世人格の顕現化ではなく、異物である霊の憑依現象だとすれば、事情はまったく異なった様相を帯びることになります。
そして、タエとラタラジューは、里沙さんにとって異物である霊の憑依現象を疑った人がいたとしても、あながち間違いだとは断定できません。なぜなら、外からの観察する限りにおいては、そのようにも受け取れるからです。

顕現化したのは「前世人格」であるのか「憑依霊」であるのか、この区別は先行研究がないだけに難問と言えます。タエとラタラジューは、里沙さんの「前世の記憶」である、というワイス式前世療法の前提であれば、このような難問が生じる余地はありません。
「前世人格の顕現化」というこれまでにない作業仮説に基づくSAM前世療法につきまとう独自、固有の難問と言えるでしょう。
しかし、タエとラタラジューの事例が憑依現象だということになれば、SAM前世療法が前世を知るための療法として成立することを否定されてしまいます。

それでは、タエとラタラジューが魂表層の前世人格の顕現化現象である正当な根拠はどこにあるのでしょうか。このことについて整理して述べてみたいと思います。

①セッションの手続きとして、里沙さんを「魂の自覚状態」まで深め、そこに至ったところで、魂表層の「現世のもの」が顕現化した。現世のものに、タエおよびラタラジュー人格との交替を指示しその指示どおりタエ・ラタラジューが顕現化している。つまり、タエもラタラジューも、里沙さんの魂表層に存在しているからこそ、交替して顕現化したと考えるのが自然である。
そのことを示す、里沙さんが残してくれた「タエの事例」セッション中の内観(内省)の記録は、次のようなものである。

 「扉を開けると、まぶしい光の世界が見え、そこにもう一人の私がおりました。前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光の塊ではありましたが、まちがいなく私でした。そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました。私の前世は、タエという名前の女性で、天明三年に起きた火山の噴火を鎮めるために人柱となって、一六歳で溺死するというものでした。目の前に迫る茶色い水の色や、「ドーン」という音もはっきり分かりました。水を飲む感覚、息が詰まり呼吸できない苦しさ、そして死ぬことへの恐怖、それは言葉では言い表すことのできない凄まじいものでした。私は、タエそのものとして死の恐怖を体験しました」

上記の記録で、里沙さんのモニターしている意識は、「前世の私と思われるそれは、姿も形もなく、無論男か女かも分からない、音も声もない、小さな光の塊ではありましたが、まちがいなく私でした。そして、一瞬にして、すべてのものが、私の中に流れ込んできました。私は、自分が何者なのかを知り、状況も把握できました」と語っている。
これは、「魂状態」に遡行し、タエが顕現化してくる過程を表現したものと解釈できる。そして、自分が何者なのかを知ったと述べている。さらに、「私は、タエそのものとして死の恐怖を体験した」と続けている。
もし、タエが異物としての憑依霊であるなら、このような自分とタエとの「同一性の感覚」が生じるとは考えにくい。

同様に、「ラタラジューの事例」セッション中の内観記録は次のように述べられている。

「ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの七八年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。
(中略)
カルパナ(セッション協力者)さんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。 そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました」

里沙さんは、上記においても「それほどまでラタラジューと一体

2013年2月11日月曜日

SAM前世療法で示される「生まれ変わり」の仕組み

「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」というブログ(前々回の記事で引用)に「生まれ変わり」について、下記のようなモデル図で示した面白い議論が掲載されています。これを引用して、SAM前世療法が示す魂と生まれ変わりの仕組みについて、考察してみます。
ブログ管理者高森氏は、スピリチュアリズム霊学に基づいて5つの生まれ変わりの類型を提示しています。セッションの意識現象の事実から導き出した私の提唱する「生まれ変わり」の概念は、高森氏の提示するⅤ型(多面体説)ということになりそうですが、以下にまずその記事の問題となる部分を示し、次いで記事の問題点を指摘したいと思います。
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Ⅴ.多面体説

 これに対して、一応は「私という個性的存在」を認めつつ、魂なり霊なり宇宙精神なりを強調する考え方もあります。
 これは、魂なり霊なりは、Aという個人的存在を現世に生み出すが、Aは死後、魂や霊に付属して存在を続ける、そして魂や霊は、別のBという個人的存在を新たに世に生み出す、というものです。
 次の図は、時間軸に沿った変化として見てください。なんか雪玉ゴロゴロみたいな変な形になりましたが(笑い)。

 魂であるXは、A、B、Cという現世存在を次々に生み出していきます。A、Bは死後も一応の個別性を持ちながら、魂Xとともにあります。
 シルバー・バーチの「魂はダイヤモンドのような多面体であり、あなたはその一面なのだ」というような説や、稲垣勝巳さんの「人格は魂の表層のもの」という説は、おそらくこういうふうになるのではないかと思います。(ひょっとすると違うかもしれません。)
 
 さて、この構図で問題になることは、まず、「個別の人格は生まれ変わりをしない」ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。
大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)
 むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか。
 もうひとつ問題になるのは、死後の「人格」の状態です。一番右の時点で、AとBは、どういう状態で何をしているのでしょう。一般的に、死後存続説というものは、単に「残る」ということではなく、「活動を続ける」ということを含意しています(古代ユダヤ教の「冥府での眠り」――復活を認めないサドカイ派の死後観――はですから死後存続説としては異常説です)。
 AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です。
 つまり、このような捉え方(あくまでこの図のような捉え方ということ)は、「生まれ変わりの否定」であり、場合によっては(死後人格の活動状態いかんによっては)、死後存続の否定にもなりかねないということになります。
(中略)
 特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう。
 
(中略)
 死後存続研究者(たぶんデュカスだったと思います)が言った「死後存続については、どういう条件が満たされると証明されたことになるのか、まったく合意ができていない」という言葉と同様、
 「生まれ変わりについては、どういう条件が満たされると生まれ変わりが証明されたことになるのか、まったく合意ができていない
ということになっていると思われます。
 霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、「何が生まれ変わるか」「生まれ変わりの定義とは何か」についてすら、合意ができていないようです。
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①さて、上の図で誤解されやすいのは、大円X(魂)の外周に、○A・○B(それぞれの前世人格)が位置づけられていますが、私の概念では、○A・○B(それぞれの前世人格)は、「魂の表層」を構成している前世のものたちであって、それらのものたちは、魂の構成要素であるので、大円X(魂)・○A・○B(それぞれの前世人格)全体を含めて「魂」と呼んでいます。
さらに言えば、○C(現世人格)も、魂の表層に存在しており、この現世人格と前世人格たちを含めて、「魂の表層」なのだということです。ちなみに、私の言う「魂」は、宗教的な意味は一切ありません。「肉体に入っており、死後肉体から離れて存続する意識体」というほどの意味です。イアン・スティーヴンソンの提唱している「心搬体(生前の人格・記憶を保って死後存続する意識体)」と同様の概念です。
②高森氏は、この多面体説では、「個別の人格は生まれ変わりをしない、ということになるということです。視点を個別人格に取ると、AはBに生まれ変わっておらず、AとBはCに生まれ変わっていません。AとB、A・BとCの間に「カルマ」などの受け渡しがあったとしても、それはAやBが生まれ変わったということにはなりません。むしろ、「魂=Xは、次々に現世人格を生み出す」という方が適当であり、これを表現するには、生まれ変わりという言葉ではない新たな概念が必要とされるのではないでしょうか」という主張をしています。
一方で氏は、「霊魂仮説を受け入れた人たちの間でも、『何が生まれ変わるか』、『生まれ変わりの定義とは何か』についてすら、合意ができていないようです」とも述べています。
生まれ変わりの定義に合意がないのであるなら、この多面体説をもって「生まれ変わり」、つまり、表層の前世のものたちを含めた魂全体が、次の肉体に宿ることをもって、「個別の人格はそのまま生まれ変わりをしないが、それらを包含した魂全体が生まれ変わる」という概念であっても、なんら支障はないと私は思います。端的に言えば、私の生まれ変わりの概念は、「魂全体が次の肉体に宿ること」を「生まれ変わり」だとしています。そして、セッションで現れる意識現象の事実は、このことを支持していますから、これまでのスピチュアル霊学一般の見解に反するでしょうが、現時点ではそうと認めるしかありません。
つまり、里沙さんの場合、図の○Aがタエ、○Bがラタラジュー、○Cが現世の里沙、ということであり、このことをもって「生まれ変わり」をしていると私は呼んでいるということです。
多面体説が、「生まれ変わりの否定」になるという高森氏の主張は、氏の概念規定上の見解に過ぎないと思います。氏が、生まれ変わりの概念に合意がないことを認めているにもかかわらず、生まれ変わりの否定になる、という主張は極論であり自己矛盾ではないでしょうか。
③高森氏の「AとBがそれなりの主体性をもって活動していれば通常の死後存続説に属しますが、単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていないのなら、それは死後存続説としてはかなり異常です」という主張は、セッションで現れる意識現象の事実に対する認識不足す。
前世人格AとBは、友愛を結びながらそれぞれの人生の知恵を分かち合い、それぞれ成長を続けている、というのがセッションで現れる意識現象の事実です。
けっして、「単に眠っているように魂にくっついていたり、ただCを見守る(あるいはメッセージを送る)といったことしかしていない」わけではありません。そもそも、「魂にくっついている」という認識が誤りです。くっついているのではなく、魂の表層を構成しているもの、したがって、魂そのものの構成要素です。だからこそ、セッションにおいて、魂状態の自覚に至れば、タエやラタラジューが顕現化するわけで、彼らが「単に眠っているように魂にくっついていたり」しているわけではないことを、セッション証拠映像を検討すれば誰もが納得されるでしょう。
④「特にⅤ多面体説の場合は、AとBとCが同じXに属するものであるということを立証しなければならず、またABC間の関係も説明しなければならず、相当ハードルは高くなってしまうでしょう」という高森氏の指摘については、今後の課題です。
氏の「立証」が、科学的立証を意味するなら、氏の提示した生まれ変わりの5つの類型すべては観念論であり、すべて立証不能です。
私は、「魂の多面体仮説」の立証を、催眠を道具に用いて、セッションで確認できた「意識現象の事実」の累積から共通項を抽出する、という方法論で、これまでもやってきましたし、これからもやっていこうとしています。それ以外に「意識」の研究は方法がないと思うからです。
そして、現時点で確認できていることは、AとBとCが同じXに属するものである、という意識現象の事実です。
魂の多面体仮説に基づくSAM前世療法は、こうしたことを探究する有用な道具だろうと思っています。
そして、これまでの探究において、多面体仮説を否定する意識現象の事実は現れていないということです。

『催眠・魂・生まれ変わりの真実』横浜上映会のお知らせ

私の知人が以下のように上映会を企画しましたので紹介します。

ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』

・・・・・・SAM前世療法の実録ドキュメンタリー映画・・・・・・

日 時 3月10日(日) 13:30開場
14:00開演
16:00 第1部終演
16:00~16:30 休憩時間
16:30 第2部開演
18:30 全編終演

会 場 横浜市鶴見区民文化センター サルビアホール(3F 音楽ホール)
soto

座 席 全席自由席

料 金
・当日券 1,000円
・前売券  800円 シークレイン3Fカウンターで2月9日(土曜日)より販売
・事前申し込み 800円
下記のurlにアクセスして、事前にお申し込みください。料金は当日のお支払いとなります。

お申込みフォーム
http://www.sam.hemisyncjapan.com/?page_id=38

なお、上映後、懇親会(予算3000円)を予定しておりますので、併せてご参加ください。
また懇親会のみの参加も可ですので、お申込みフォームの備考欄に懇親会のみ参加と入力願います。


【アクセス】
JR京浜東北線・鶴見線「鶴見」駅 東口から徒歩2分
京急本線「京急鶴見」駅 西口から徒歩2分
「シークレイン」のマークが目印です。
・施設名 横浜市鶴見区民文化センター サルビアホール(3F 音楽ホール)
・所在地 〒230-0051 横浜市鶴見区鶴見中央1-31-2 シークレイン内
・お問合せ先  TEL 045-511-5711 / FAX 045-511-5712
参照urlはhttp://salvia-hall.jp/?p=9352

2013年2月6日水曜日

名古屋上映会の紹介

名古屋市在住の私の知人が以下のように、名古屋市で上映会を計画しましたので紹介します。
誤解を避けるために申し添えますが、上映会を主催するのは私ではありません。志のある方が自らの裁量で企画し、おこなっていただいていることです。私は映画監修者として、会場費が赤字にならないよう応援する立場です。
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3月30日土曜日
場所
名古屋市東区上堅杉町1
ウィルあいち 視聴覚室
名城線市役所下車2番口より東へ徒歩7分
名古屋市政資料館前
「 良い映画を観る集い 」
映画鑑賞代金
各500円・2部通し1000円
10~12:00
ドキュメンタリー映画 『催眠・魂・生まれ変わりの真実』 (応答型真性異言「ラタラージュの事例」)
12~13:00 ランチ休憩
650円コーヒー別途300円
13~15:00  映画 『Theシフト』
15~15:30  主催者 伊藤泰史氏あいさつ
終了
以上の予定です
連絡先は、メールとFAXだけにしてあります。m(_ _)m。
詳しい場所は参加希望者の方に直接、こちらから地図等FAXかメールでご連絡させて頂きます。尚、鑑賞希望の皆様にはランチの予約も合わせて承っております。大変込み合う為に席を確保する為です。
連絡先
松本はるみ
haru-mi08427@softbank.ne.jp
FAX 052-852-3311

2013年2月5日火曜日

生まれ変わりについてやや難解な議論その2

以下は前回紹介したブログ記事への私のコメントへの応答です。
「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」の記事ですが、私はこれについて再コメントしました。その紹介です。なんとややこしい議論であることよ、と思われる方は読むのを中断されるでしょう。が、スピリチュアリズム霊学を学ぶには格好の記事であることは確かです。


垣勝巳さんへの応答
2013-02-04 03:54:15
 前回の記事(人格とは何か)に関して稲垣勝巳さんからコメントをいただきましたので、別エントリとして応答を書いてみたいと思います(コメ欄は不自由なので)。 
《セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。》 「『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、「魂」とその「表層」も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか。
 「表層」というのを独立人格で現在も生きて活動しているとするのか、というところがポイントですね。(私のこれまでの理解では、過去世の人格は、「遺像」(非常に濃密な記憶・記録)のようなものとして保持されるという感じです。)
 《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》
 これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか。
 別主体であるタエやラタラジューは、普段はどこで何をしているのでしょう。その「人格」は、外界・他者を認識し、何らかの意志を持って行為をしているのでしょうか。また、タエやラタラジューは、お互いや「(本体の)魂」や現世人格である里沙さんに同一性感覚を持っているのでしょうか。本当にタエやラタラジューは生まれ変わっているのでしょうか。
 《ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。魂表層の前世人格が不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。》 《なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。》
 こういう観点だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。
 「他者」が「前世人格」であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。 「同じ魂の表層である」と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか。
 もし、「現世の私」というものが、生まれ変わりにおいて、部分的解体を経ず、「次の生の人格」とは別の存在として、現世生活とは少し離れて存在・活動するのであれば、それは「類魂(同じグループの魂)」を見守ると言われてきた状態と、あまり違いはないことになるのかなと思います。(もっともその場合、私は類魂を見守りつつも、霊界で自分なりの活動をしていることになると思いますが。)
 さらに懐疑論的に言えば、前世人格が「実在」であり、この世に「生まれ変わっている」という「証明」は可能でしょうか。(「守護霊」の証言は、科学的な証明の対象になるものでしょうか。)
 《あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。》
 私はスピリチュアリズムと心霊研究を探究してきて、もともとの立場としてはスピリチュアリストです。スピリチュアリズムの綱領と言われているもの(そんなものは正式にはありませんがw)は、「①人間の個性の死後存続、②霊との交信可能性」です。ですから、私は基本的には「私という人格が死後存続したり生まれ変わりしたりするか」という問題意識を持っています。で、長年の探究の蓄積によって、それは正しいだろうと思っています。ただし、それ以外の様態が並行的にあり得ないと言うつもりはありませんし、「私という人格ではない、別のものが死後存続する、生まれ変わる」という可能性(私や人格や魂という概念そのものの再編成?)も全否定するつもりはありません(カルマの伝搬というのもあるでしょうし)。しかし、それらはいわゆる「スピリチュアリズム」とは異なる立場だろうと思います。そしてもちろん、そちらが正しいと証明されれば、受け入れるつもりです。
 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》
 それを否定するつもりもありませんし、否定する根拠もありません。ただ、従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、と感じているだけです。
 そしてその違いが何によるのか、単に解釈や表現の違いなのか、そもそも違う現実がいくつもあるのか(霊統の違い?)、それともどこかに間違いがあるのか、そのあたりにとまどっている次第です。      
 タエやラタラジューの発現現象が、「独立的人格の憑依」だとした場合、どうも気になるのは、彼らが「完全な人格性」を欠いているように見えることです。
 彼らは、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです。
 霊の憑依において、霊媒が優秀であればという条件付きですが、出現した人格は、現に今生きている人格と同様、自己の状態への言及や、居合わせた人への働きかけや、意志や意見の表明をします。現存在としているわけです。(マイヤーズ霊の交差通信記録などはその典型です。)
 けれども、記録をみる限り、タエやラタラジューは、どうもそういう「一人前の人格」には見えないのです。むしろ、通常の(現世内の)退行催眠で幼児に戻った人が、当時の自分を表現している時に近い印象を受けます。あるいは、こういう言い方はちょっと申し訳ないですが、死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する「未浄化霊」の語りに近い感じもします。
 前にもどこかでちらりと言ったことがありますが、もし「私」が死後存続し、生まれ変わっても、こういう状態でしかないのだとしたら、とてもつらい感じがします。
 これまでの「霊との交信」記録では、かなり多くの「死後の魂」にとって、「死は解放である」「霊界は肉体の束縛から逃れて、(その魂なりに)素晴らしい世界で活動する」ことが証言されています。未熟な魂といえども、自己省察や主体的活動をして生きています。古くは「ベールの彼方」から、最近はマイケル・ニュートンなどの報告まで、そうした証言はたくさんあります。
 個人的な感想を言えば、それが真実であれば嬉しいと思いますし、真実であろうと思っていますし、スピリチュアリズムがもたらした希望はそこにこそあると思っています。
 そういった観点から見ると、タエやラタラジューは、別人格主体ではなく、「人格記憶・記録の殻(統合的構造体)」であって、それが一時的に復元されたのではないか(霊界に行った魂が、新たに来た魂や、脱魂で訪れた魂に会う時、かつて現世で生きていた時の姿や人となりを纏うのと同様に)と推論せざるを得ないわけです。そうでないのなら、これは「特殊ケース」かなとも。
 もちろん、稲垣さんには実践を通した知見というものがあるわけですから、それを無碍に否定したり、こちらの見解を押しつけたりするつもりはありません。
 タエやラタラジューの事例は、唯物論に反駁するのに非常に強力な事例だと賞賛していますし、真摯な実践家としての稲垣さんの姿勢に敬意を抱いております。 ただ、私は、今のところスピリチュアリストの末裔として、あくまでも「私」の死後存続や霊界活動や生まれ変わりを問題にし続けたいですし、多くの事例から、その事実を主張したいと思っています。
ご質問への回答 (稲垣勝巳) 2013-02-04 23:58:28
①『魂』と呼ばれる意識体全体」というのは、魂とその表層も含めてということでしょうか。
つまり、タエやラタラジューを表層に持った魂全体が、里沙さんに生まれ変わっているという考え方でよろしいのでしょうか」というご質問については、私は、セッションで現れる意識現象の事実の累積から、そのように理解しています。
私あて霊信においても、魂は表層と中核(内層)の二重構造をしていると告げています。
ただし、魂の中核(内層)については不明です。
②《そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。》「これの根拠となるものは何でしょう。タエやラタラジューの記述には、彼らが「それぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けている」ような情報はなかったように記憶していますが、間違いでしょうか」というご質問について。
タエとラタラジューについての拙著の記述には、ご指摘のようにこのような内容はありません。
こうした情報は、それ以外のセッションで顕現化した諸前世人格への聴き取りの累積から確かめてきたことです。
その理由は、2007年1月の私あて霊信で通信霊がそのように告げてきたので、その真偽を確認するためです。
③ 《私には、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。》 という私の見解については、諸セッションで現れる意識現象の事実は、そのように現れてくるから、そう考えるしかない、というトートロジーでお答えするしかありません。
敢えていえば、「臨床から得られた知」というほかありません。
ちなみに、こうした知見のもとは私あて霊信が告げています。
従来のスピリチュアリズムその他で示された知見とは異なるなあ、というあなたの感想は私も全く同感でした。
そのことを通信霊に質したところ、
「尋ねるまでもない。あなたに与えられるべきものが与えられたのだ。そして、これまでのものたちに与えられるべきものが与えられただけだ。すべては神の計画のもとにおこなわれている。それはそうあるべきであっただけだ。そして、あなたにとってもそうである。あなたには、与えられるべきものが与えられたのだ」
という回答とは言えない回答でした。
魂の二層構造仮説などは、およそ生身の人間である私の独創であるはずがないのです。
④ 「彼ら(タエとラタラジュー)は、史実と符合する事実を語り、一定の感情を表わし、またラタラジューの場合は当時の言語も話しましたが、自分の置かれている状況への認識や、意志の表明や、他者への働きかけをしていません。前の記事で挙げた人格を構成する①から⑤の要素の、ごく一部分しか見られないのです・・・死後にきちんと霊界での活動をしておらず生前の状態に固着する『未浄化霊』の語りに近い感じもします」というご感想について。
そのように感じられるのはもっともでしょう。
両事例とも、2回のセッションしかしていませんから、さらにセッションを数回重ねれば、状況認識や他者への働きかけをすることが観察されるかもしれません。
しかし、セッションをおこなうことは、当の里沙さんの脊柱側湾症の悪化状態とタエとラタラジューの死に際の苦痛の再現にこれ以上耐えられないという訴えによって、控えるしかないのです。
ただ、彼らは意志の表明はしていると認められます。
里沙さんの肉体を借りて、そうした意志を表明しているときの里沙さんの苦しみや喜びの表情は、セッション映像を詳細に観察すれば納得できることです。
セッションをおこなった当事者の私からすれば、タエもラタラジューも、ただ今、ここに現れて、生き生きと対話している、という印象を持たざるをえませんでした。
里沙さんの前世記憶の想起ではない、と思わざるをえないのです。
⑤「こういう観点(自己内憑依現象という概念)だと、前世人格と現世人格は「他者」だということにならないでしょうか。他者が前世人格であるということは、どうやって証明されるのでしょうか。同じ魂の表層である、と説明されるのかもしれませんが、それは証明可能でしょうか」というご質問について。
自己内憑依している前世人格が、他者(異物としての憑依人格)ではないという証明は、少なくとも里沙さんにおいては、彼女の残しているセッション中の意識内容の内観記録を詳細に検討すれば、可能だと思っています。
一言で要約すれば「現世の自分と前世人格との同一性の感覚の有無」によって判断可能だということです。全くの他者(異物)に対して、自分とのつながりの感覚が持てるはずがないからです。
このことについての先行研究は皆無ですから、現時点ではこれしか回答のしようがありません。
もう一つは、同一の魂の表層に存在するタエとラタラジューの人格であるので、交替を要求すれば、交替が起こり、要求した人格が顕現化する現象の観察によって、同じ魂の表層に存在しているからこそ、連絡を取り合うことが可能だろうと推測できます。
ちなみに、私あて霊信でも、「それぞれの前世のものたちは友愛を結び、人生の知恵を分かち合っている」と告げています。
それ以外のご質問については、現時点では回答を持っていません。
分からないということが正直なところです。
私あて霊信の真偽を検証するために、SAM前世療法の実践を累積してたかだか5年、700事例を越えた時点の私の見解です。
今後も、私は諸文献の事例からではなく、まずは自らの手で確認した事例から、明らかになったことを主張したいと思っています。

2013年2月4日月曜日

生まれ変わりについてのやや難解な議論の紹介

私の知人の「永遠なる自由ー霊的哲学を求めて」というブログで、以下のような議論がありますので紹介します。
彼はスピリチュアリズム霊学の立場からの問題提起でしょうし、それに対する私のコメントは、心理臨床実践者の立場での見解だと言えます。
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死後存続や生まれ変わりにおける「人格」についてのやや専門的な議論
 
 前のブログの【「私」という超難題】(1) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(上)【「私」という超難題】(2) 真性異言事例における「再生」と「憑霊」(下)において、真性異言を伴う「前世想起」とおぼしき事例――イアン・スティーヴンソンの「シャラーダの事例」と稲垣勝巳氏の「ラタラジューの事例」――を取り上げて、「憑霊か前世記憶か」という問題を論じ、さらに、「死後存続」や「生まれ変わり」において「何が主体か」という問いを出しました。 
 そして、「死後存続」や「生まれ変わり」の「主体」が科学的・実証的に定義できない以上、「死後存続」や「生まれ変わり」の科学的・実証的証明も不可能になるのではないかという、いささか極論的で驚愕的な提議もしてみました。
  《死後存続(survival after death)とか生まれ変わり(reincarnation)ということは、何らかの「主語」を伴っています。ごく当たり前に考えれば、「私」が死後も存続する、「私」が死した後再びこの世に生まれてくる、ということを意味するはずです。
 ところが、この「主語」が確定できない。何が死後存続し、生まれ変わるのかを、言うことができない。となると、「死後存続」や「生まれ変わり」の証明は、“不可能”ということになります。》
 また、稲垣氏が、「ラタラジュー(やタエ)は現世人格とは別人格であり、それが憑依している」というような解釈をされていることに関して、いささかの疑問も提示しました。
 そのあたりのところがすっきりしなかったので、少し続編を綴ってみることにします。          
 死後存続とか生まれ変わりは、当然、その主体があることを前提にしています。
 それは一般的には「私」、もう少し詳しく言えば「私の人格」です。
 もし「私」が「神という大きな火の小さな火花」であるとか、「大いなる宇宙エネルギーの一顕現化」であって、「私」の死後、その「火」とか「エネルギー」とかだけが脱け出して、存続や再生(再顕現化)を続けるのであるなら、それは「私」の存続や再生とは言えません。
 同様に、稲垣氏の解釈にあるように、個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は「魂の表層のもの」であって、不滅の存続をするのは「魂」そのものだとするならば、個々の現世人格の「私」は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に「凍結」して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。) 
 で、改めて、「死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならない」ということになると思います。そして、問題は、その「私の人格」とは何かということになります。
 これは前のブログでちょっと書いた「私というものは、私の人格をも超えた存在だ」という提議と、矛盾するものではありません。私は必然的に、常に私の人格を帯びるものであるけれども、私の主体(真の核)はそれを超えたところにあるということになるかと思います。       
         
 主体としての「私」の人格とは何かということを、ごく一般的な見方から考えてみたいと思います。 それは、次のようなものになるかと思います。①固有の性格特性(複数)が持続的に保持されていること②「私」を主人公とした記憶(多数)を保有していること③②に伴う知識・技能を保有していること④外界を受容し、判断し、それに対して意志をもって行為すること⑤自己同一性感覚(主体感覚)があること(当然、責任主体も想定されていること)
 ①の性格特性というのは、たぶん非常に多様・多数のものです。優しい・厳しいといった漠然としたものから、特定のもの(権力、愛、真実などなど)への強い志向といったものまで、レベルも、大小も、方向性も、様々あるでしょう。そして、一般的に人は、自己の中に複数の性格特性を持っていて、それを発揮したり引っ込めたりもします。また、一部の特性が途中で消滅したり、新たな特性が加わったりすることも、ないとは言えないでしょう。
 ②は自己同一性の基礎となる記憶です。新生児はともかくとして、人間はこれをたくさん獲得していきます。もちろん、中には表面(意識)から消え去ってしまうものもありますし、あまりに細かくて心には意味のない情報は、内奥(無意識)からも消え去ってしまうかもしれません。
 ③は、経験によって蓄えられた客観的な知識(教養・常識・世界観)とか、言語能力や楽器演奏能力といった「特殊技能」(暗黙知)などです。
 ④は、生きている主体であるということです。内的な空想・妄想によってではなく、外界(他者)を客観的に認識・判断し、一定の「自由意志」「選択」によってさらに経験を増していくということです。また、主体であるということは、「自らの行為による結果は自らが引き受ける」という責任の所在も意味します。
 ⑤は、時間や累積的経験の全般にわたって「私」が主体として体験してきたという感覚、私は私であり、私に責任があるという感覚です。 これらの要素は、時たま、病気や事故などによって毀損されることがあります。神経症によって性格特性の一部だけが突出していびつになったり、記憶喪失になったり、認識や判断や意志が働かなくなったり、自己同一性感覚が部分的に破壊されたり(解離性自己同一性障害=多重人格)、と。 けれども、通常では、これらが人格の中心部分を形成していることは間違いないでしょう。      
 
 さて、こうした要素が、死後どうなるか。 唯物論の「帰無仮説」では、すべてなくなります。当然ですね。いや、原理主義的唯物論だと、こうした要素すら「ない」と言うかもしれません。自己同一性なんて、どうやって計測できるの? みたいな感じですね。まれに見られる「折衷的死後存続説」というのがあります。
 これは、たとえば、②の「私の記憶」のみが、どこかに、何らかの形で保持される、という考え方です。「アカシック・レコード」なんていう概念がありますね(実際にあるらしいですが)。仏教でいうと「虚空蔵」ですか。 偉大な業績や作品を遺せば、そこに「私」が残り続ける、といった考え方は、けっこう広く見られます。西欧文明のエリートたちは、案外そういうことを目指しているかもしれません。個人名にやたらこだわりますし。 一部の宗教には、「悉皆成仏説」とでも言うべき死後説があります。それは、(極悪人を除いて?)すべての人は、死後に菩薩や天使のような存在になるというものです。 
 これにおいては、①②③に関係なく(むしろそれはさらっと捨て去られて)、「私」は「理想的人格」に変身します。④の行為主体性が継続されるだけで、⑤生前人格との自己同一性感覚も不明です。 
 まあ、ありがたい説ではありますが、「私(という人格」の死後存続とは言えないものです。 とある霊からのメッセージは、「死後、どんな低劣な人間も極悪人も一瞬のうちに変身して天使のようになるというのなら、それは死後存続とは言えないだろうに」と言っています。 そしてこういう考え方は、「生きるということの意味」も倫理も奪ってしまう、宗教にあらざるべき考え方と言えるでしょう。 結局、「死後存続説」とは、①の性格諸特性はほぼそのまま保持される②の体験記憶はほぼそのまま保持される(次第に細かい部分は失われることがあるにしても)③の知識・技能も同様④の行為主体性も保持される⑤生前人格との自己同一性感覚はある ということでなくてはならないと考えられます。 そして、スピリチュアリズムや心霊研究において蓄積されてきた「霊(肉体を去った個性)との交信」記録においては、おおむねこのことが立証されてきたわけです。(多くの人は認めないにしても。)     
                
さて、こうして「存続」した「私という人格」が、再び現世に生まれ変わる時に、どうなるか。
 これはとても難しい問題です。
 ①の性格特性はその主要な部分が保持されると思われます。ここがまったく変わってしまったら、「自己同一性」は保持されなくなるでしょう。
 ②の体験記憶は、ごく稀な例外を除いて、表面的には“全消去”されます。ただし、無意識?には保持されて、変性意識状態で想起されることもあります。
 ③の知識・技能については、稀に一部を保持・発揮することがあるようです(由来不明の恐怖症や持って生まれた特異才能など)。なお、ごく稀に、身体的特徴(先天性・後天性を問わず)を引き継ぐことがあるようです(スティーヴンソンによる“先天性刻印”の研究参照)。
 ④の行為主体性は当然保持されています。また、時に「カルマ」などと表現される「責任」主体性(課題や償いを引き受けること)もあるとされています。
 ⑤自己同一性感覚は、前世人格や中間世人格との間には存在しません(そもそも通常は知らない)。
 つまり、体験記憶や知識・技能記憶は消去されているものの、性格特性(のかなりの部分)と責任主体性は持続している、ということになるかと思います。
 ところで、こうして生まれ変わった「私」が、また死んだ後、どうなるか。複数回再生と死を経験した「私」は、どういう状態にあるか。ここに微妙な点があります。
 可能性は二つでしょう。 Ⅰ 直前の生とのみ連続性がある Ⅱ 複数回の生との連続性がある
はあまりに奇矯な考え方ですが、まだ未熟で現世の諸欲にとらわれているような魂ではあるのかもしれません。 
 Ⅱは、「生まれ変わりによって魂が成長していく」とする考え方と合致するものです。 
 複数回の生との連続性を持った場合、
 ①複数回の生において持った性格特性をすべて保持する
 ②細部は除いて、複数回の生の主要記憶を保持する
 ③②と同様
 ④長い時間・経験を越えて持続する主体性を獲得し、責任も受容する
 ⑤複数回の生の自己と同一性感覚を持つ こうなっていくのであれば、「私」は、輪廻転生を繰り返すことによって、より豊かに、大きく成長していくものだ(現世ではそれを自覚しないが)ということになるでしょう。    
さて、ここで、前世想起(催眠下、ないしは偶発的変性意識状態による)とおぼしき事例での、きわめて「人格そのものに近い」出現について考えてみます。
特に「シャラーダの事例」や「ラタラジューの事例」のように真性異言を伴ったものに顕著ですが、前世人格とおぼしき人格が、今そこにいる人格のように、発言したりする場合です。これは、よくある前世退行催眠での、「こういうことがあった」という「記憶想起」とはかなり位相が異なるものです。 シャラーダやラタラジューを文字記録や映像記録で見た感じでは、
 ①の性格特性はある程度認められる(特にシャラーダの場合は非常に顕著)
 ②は部分的にかなり詳細に発現する
 ③は部分的に発現している(在世時の言語=真性異言)
 ④は?
 ⑤現世人格との同一性感覚は持っていない
 ④ですが、シャラーダは、その時点での外界や状況を客観的に認識し(自分がなぜここにいるのかはわからなかったようですが)、さらに自分の郷里に帰り、親戚たち(実はもういない)に会いたいといった要求をしたようです。ラタラジューは、「~したい」というような発言はないようです。
 ⑤に関して、現世人格が「出現人格」に対して同一性感覚を持っているかということですが、シャラーダの事例では、出現時に現世人格は不在(消失)となっており、事後に報告されても「それは私の前世だ」という感覚はなかったようです。ラタラジューの事例では、里沙は出現と同時かその直後に、同一性感覚を持ったような感じで報告されています。
 つまり、シャラーダの事例では、この「人格」は、「死後存続」した人格が、そのままで、つまり「憑霊」して出現したと捉えることが自然だと思えます。
 ラタラジューの場合は、どうでしょうか。現状認識や主体意志に乏しいということは、完全な人格ではないということ、つまり憑霊ではないということでしょうか。    

 
一般的に「前世退行催眠」で前世記憶を想起した場合、一般人が普通に過去の記憶を甦らせているように語る場合もありますが、時に、非常に臨場感を伴って、あたかもその前世人格が、今そこでその体験をしているかのように――つまりかなり人格的な姿をして――、再現される場合もあります。 このような場合、そこに「人格」が出現していると見るべきなのでしょうか。それとも、それは諸記憶が総合されて、そこに霊的エネルギーが注入されることによって、「あたかも人格のように」出現していると見るべきなのでしょうか。
 稲垣氏の提示しているように、「前世人格は別人格であり、それが憑霊している」という捉え方をすると、「私の人格」の「死後存続」や「生まれ変わり」という考え方とは衝突することになります。 ラタラジュー、タエ、里沙がそれぞれ「別人格」であるとすると、その間にある「生まれ変わり」とは何だということになるのでしょうか(どういう連続性があるのかということでもあるでしょう)。
 また、ラタラジューやタエは、「死後に人格性を持って活動している」のでしょうか。彼らが死後、かなり不活性な状態で留まり続けるとしたら、里沙、あるいは私たちという現世人格も、死後、不活性な状態になるのでしょうか。
 どうも私には、「ラタラジューやタエが、統体的記憶(ただし想念が実在であるように“実在”)に霊的エネルギーが注入されることで賦活した『準人格的発現』であるなら、生まれ変わり説は成立するが、『別人格』であるのなら憑霊説になるのではないか」と思われてなりません。
 それとも、「私という人格の死後存続や生まれ変わり」という概念が不適切だということになるのでしょうか。
 そうすると、一体“何が”死後存続し、生まれ変わるのでしょうか。   

 
言うまでもありませんが、こうした議論は、シャラーダの事例やラタラジューの事例の信憑性を否定しているものではありません。
それは明らかに「唯物論では説明できないもの、それに反駁するもの」であり、「人間の人格(少なくともその主要部分)が肉体の消滅後も、現行の物質的な手段に依らない何らかの形で保持される」(狭い意味での「死後存続」)ということを証明するものであることは疑いありません。
しかし、「死後存続」や「生まれ変わり」は、厳密に考えれば考えるほど、定義・立証が困難になってくるものであり、おそらく科学的・実証主義的な方法や語彙では、扱ったり論じたりすることがほぼ不可能なものではないかと思えるわけです。  
こうした突っ込みすぎた議論は別にして、「死後の個人との交信」や「前世記憶の想起」などによって、死後存続や生まれ変わりが十分に信憑性を持ったものであることは、どれだけ強調してもし過ぎることはないでしょう。
 しかし同時にその奥には、人間の知性ではなかなか理解し尽くすことのできないような謎があることも、また銘記しておくべきなのかもしれません。
 またまたすっきりした議論になりませんでしたが、とりあえずはこのあたりで。
【コメント】

臨床家としての立場から
(稲垣勝巳) 2013-02-03 23:13:29
心理臨床のひとつであるSAM前世療法士としての私の立場は、観念より事実、理屈より実証へ向かわざるをえません。
主訴を抱えて生きづらくなっているクライアントを前にして、とりあえずの作業仮説を構築し、それにもとづくセッションを展開していかねば終結の道筋も立ちませんし終結へ至ることもできないわけです。
そうしたセッションで現れる意識現象の事実の累積によれば、「個々の現世人格(タエやラタラジューや里沙)は魂の表層のものであって、不滅の存続をするのは魂そのものだとするならば、個々の現世人格の私は、死後存続も生まれ変わりもしないということになってしまいます。(それらは死後に凍結して存続するのかもしれませんが、それは「死後存続」とは言えないでしょう。)で、改めて、死後存続や生まれ変わりとは、『私』(私の人格)が『主体』(主語)として設定されなければならないということになると思います」というあなたの見解には同意しかねます。
私の理解力が不足かもしれませんが。
セッションで現れる意識現象の事実は、生まれ変わりの主体は「私」ではなく、「魂」と呼ばれる意識体全体であり、「現世の私」は、来世では「魂の表層の一つとしての前世人格」として死後存続するということです。
そして魂表層の「私」は「凍結」して不活性な状態で存続しているわけではなく、他の前世人格たちとそれぞれの人生の知恵を分かち合い、成長を続けているようです。
そうして、魂の表層の集合的意識が成長・進化するように図られているらしい。
ただし、深い傷を負っている前世人格は孤立し、その苦悩やそうならないための警告を「現世の人格」に訴え続けるので、現世の人格は、その影響を受け、不都合な心理的症状やときには肉体の諸症状を自覚することになるといことです。
こうした私の見解は、顕現化した前世人格への聴き取りの累積から形成されてきたことです。
魂表層の前世人格が、不活性な状態で存続していないからこそ、現世人格に良くも悪くも影響を与えていると考えざるを得ません。実際、顕現化した前世人格は、そのように答えます。
なお、ラタラジュー人格を含めて前世人格の顕現化現象は、そうした魂表層の前世人格が、現世人格に憑依して自己表現しているというとらえ方をすることが妥当であると考えられます(里沙さんの守護霊も憑依ととらえなさいと告げています)から、今までにない概念として「自己内憑依」とも呼んでいます。
あなたの議論は、『私』(私の人格)の個性そのものだけの死後存続に傾斜が置かれすぎて、私のセッションで現れる意識現象の事実とは相容れません。
私は、現世の「私」が、来世で、「魂表層の一つとしての前世人格」として生き続けることをもって「生まれ変わる」と考えることに矛盾を感じませんし、セッションで現れる意識現象の事実は、そのような形で「魂全体」が生まれ変わりを続けていることを示しています。
ただし、私の見解は、霊学的知識を棚上げして、セッションの累積から手探りで仕入れたものですから、現時点の「とりあえずの見解」であることをお断りしておきます。

2013年2月1日金曜日

上映に関して起きているちょっと面白い現象

ごく最近、ある霊能者、キリスト教系宗派のある信者の二人から、立て続けに、私のやっている生まれ変わりの実証研究は、神の定めたタブーを犯しているので、罰としておそろしい災いを被ることになるであろう、といったおどろおどろしい警告をいただいています。
そして、ドキュメンタリー『催眠・魂・生まれ変わりの真実』DVDを里沙さんから借りて、深夜に視聴中の彼女の二人の友人が、半端ではないラップ音が聞こえて恐怖に駆られたという報告や、20日の上映会で上映中にホット缶コーヒーの飲み口部分が膨張し次に凹むという超常現象の報告など、映画視聴中に気味の悪い超常現象が起こったという報告を立て続けに受けています。これは、何らかのメッセージかもしれない。
そして、一昨日のセッションで、神と私の守護霊団のメッセージを告げるために憑依したというクライアントの守護霊を名乗る存在の憑依現象が起きました。憑依霊が告げるには、今回上映会開催にあたり、霊的真理を急ぎ広めるようたびたび告げてきたが、それを実行に移してくれたことに神と我々は喜んでいる、ラップ音など超常現象はその祝福のしるしとして起こしている、という信じ難いメッセージを告げました。
視聴中のラップ音などは、私が神のタブーを犯しているという怒りの警告であり、今回映画の持つ霊障のメッセージかもしれないと内心案じていましたが、この憑依霊とおぼしき存在の告げたことは逆で、祝福のメッセージだと言うのです。
ちなみに、この40代女性クライアントは、今回映画については作られたことも、上映会のことも全く知らない、ということでした。不思議と言えば不思議な催眠中に起きた意識現象です。
そもそも、今回の映画上映の元をたどれば、2007年1月~2月に届いた私あて霊信(本ブログに公開)なのです。その中で、神の命を受けていると通信してきた守護霊団を名乗る存在が、私に教えた魂と生まれ変わりの仕組みを作業仮説にして創始したSAM前世療法によって発現した「タエの事例」と「ラタラジューの事例」のセッション映像を中心とした映画です。
この2007年の私あて霊信が、高級霊からの通信であるなら、そして低級霊によるまやかしでないのなら、今回映画の制作と上映は、これまでの経緯からして、霊的真理を急ぎ広めよ、という神と守護霊団側の意に沿ったもので、そのことに霊障などがあろうはずがない、と思っています。
この記事を読んでいる方の中には、映画を見ようと思っている方がおいででしょうから、上映に関して立て続けに報告されている気味悪い超常現象を知って知らんぷりはできないと思い、こうして記事にしたわけです。
映画視聴中の超常現象は、どうやら霊感の強い人が体験するようですが、超常現象なんぞ勘弁してよ、と思う人は見ないほうがよろしいかと。
もっとも、タブー破りの霊障があるとすれば、映画監修者の私が第一に被るべきですし、第二は映像編集者の伊藤泰史氏が被るはずでしょうが、今のところ、両人ともいたって元気にしています。
もし、霊障らしき災いが起こったときには、包み隠さず公開しますし善後策を講じます。
映画視聴に伴うラップ音などの超常現象が、霊的存在からの「警告」のメッセージなのか、「祝福」のメッセージなのか、今後のなりゆきを見守りたいと思います。
【追記】
私の教え子で、名古屋さかえクリニック末武信宏院長が上記記事を読んでfacebookに転載し、コメントを書いている最中(2月1日午前1時ころ)、突然天井のファンが回り始めたということです。そのことを、facebookに即座に書き込むと同時にファンは止まったという超常現象の報告がありました。「ラタラジューの事例」のセッション場所は、彼の院長室でしたし、応答型真性異言の共同研究者として、彼もこの映画には深く関与しています。医学博士として科学者を任じている彼が嘘をつくとは思えません。超常現象の起きたコメントとは、「では、私もおそろしい災いを被るのでしょうか」というものでした。
(2月1日午前1時30分記)