2016年9月16日金曜日

SAM前世療法の特異性と固有性

           SAM催眠学序説 その97 


SAM前世療法の創始は2008年です。
そして、このSAM前世療法の作業仮説は、2007年1月から2月の1ヶ月余に私あてに毎夜送信されてきた、自動書記による42通の霊信現象の内容をそのまま用いています。
この信じがたい霊信内容を、催眠を用いて検証していく過程で構築されていった前世療法こそ、SAM前世療法です。
私あて全霊信は、「SAM催眠学序説その47~72」で公開しています。

地上の人間が知り得ることのない、魂の仕組みと意識の所在など、私の守護霊団を名乗る諸高級霊からの恩恵による、きわめて特異、かつスピリチュアルな、世界中で類をみない前世療法です。 

SAM前世療法で起こる特異・固有の現象には、一般のワイス式前世療法(前世の記憶にアクセスする技法)と比較して、いくつかの解明できていない謎があります。

ワイス式前世療法でうまくいかなかったクライアントで、SAM前世療法で成功しなかった事例は今のところありません。
両方の前世療法を経験したクライアントは50名を超えています。

この両方の前世療法を経験したクライアントが報告される大きな共通項は2つあります。

①催眠中の意識状態が明らかに違う。SAM前世療法の場合、ワイス式前世療法と比べてさらに深い意識状態に入ったという自覚がある。

②ワイス式ではセラピストの質問に対して口頭で答えられるのが普通なのに、SAMの場合には前世人格の10人のうち9人程度は口頭で答えることがどうしてもできない。

この①と②について、それぞれ現時点で分かっている限りの考察をしてみます。


①について、ワイス式前世療法では、催眠学の先行研究に則った「標準催眠尺度」(米国催眠学者ヒルガード作成)によって確認することなく誘導が進められるので、どの程度の催眠深度に至ってセッションがおこなわれているかが不明です。

SAM前世療法が創始される2008年以前、私がワイス式でおこなっていた前世療法では、「運動催眠」→「知覚催眠」→「記憶催眠」の順に、催眠深度を成瀬悟策博士の「標準催眠尺度」を用いて確 認し、「記憶催眠」レベルの深度到達後、年齢退行によって子宮内まで退行し、その先の「子宮に宿る前の記憶(前世記憶)」がもしあるのなら、そこに戻ります、という暗示をしてい ました。
しかし、私の知る限り、ワイス式体験者は、「記憶催眠」より浅い催眠体験である印象を受けます。
それは、記憶催眠以上の深度で多くの被験者に共通して観察される、深いリラックス状態における「企図機能の低下」と、 筋肉の深い弛緩による緩慢で小声でつぶやくような発語状態が観察されないからです。


催眠学の明らかにしているところでは、「知覚催眠」レベルでは、五感が暗示通り知覚されます。
したがって、さまざまな幻覚を暗示によってつくり出すことが可能です。
また、創造活動が活性化され、自発的にイメージが次々に現れるようになります。
しかも、被験者は、そうした自発的に出てくるイメージに対して、自分が無意図的にイメージをつくり出しているという自覚を持つことはありません。

つまり自発的イメージは架空のものとは感じられず、自分の中に潜んでいた真実の記憶が自発的にイメージ化して現れてきたという錯覚をもつ可能性が大きいということです。

こ うした催眠中のイメージ体験の特性を根拠にして、大学のアカデミックな催眠研究者は、前世療法における前世の記憶とは、セラピストの期待に応えようとする無意識的心理傾向である「要求特性」がはたらき、想起された「フィクション」であると口をそろえて主張します。

私の敬愛してやまない成瀬悟策先生も、こうした立場を明確にとっておられます。
拙著『前世療法の探究』を献本したコメントで「あなたの扱っている前世の記憶はフィクションとしてとらえなさい。さもないと危ういですよ」という警告を受けています。
私の立場から反論すれば、「タエの事例」は綿密な検証の結果、これをフィクションとするには超ESP仮説を適用しない限り説明は不可能です、成瀬先生は超ESP仮説を認めておいでになりますか? そうでないとすれば、被験者里沙さんの知り得ないはずの、タエの語りと史実との一致をどのように説明されますか? ということになります。

SAM前世療法では、「知覚催眠」レベルの深度に至っていることを日本語版標準催眠尺度を用いて必ず確認します。
知覚催眠のうち、難度の高い「痛覚麻痺」までもっていってこれを確認します。
痛覚麻痺は、標準催眠尺度にはありませんが、これを用いるのは、クライアントが確実に知覚催眠に入っていることを確認するためです。
痛覚麻痺は、我慢して痛みのないふりをしても表情の歪みなどが観察され、ごまがしができないからです。

そして、知覚催眠レベルに至ることがない深度で、「魂状態の自覚」まで遡行 できないことが明らかになっているからです。
そして、知覚催眠に至れば、ほぼ誰でも記憶催眠に至ることも明らかになっています。
したがって、SAM前世療法では記憶催眠レベルの確認はおこないません。
記憶催眠を突き抜けて、さらに深度を深めていきます。

標準催眠尺度には無い「魂遡行催眠」と呼ぶ、私が独自に名付けている最深度レベルにまで深めます。
企図機能の低下により身体の自発的運動は完全停止し、筋肉・関節の深い弛緩状態にもっていきます。
SAM前世療法ではこうした催眠状態にまで誘導するので、ワイス式前世療法より深い意識状態に至ったという報告が共通してされるのではないかと推測しています。


②については、その解明は容易ではありません。
 
SAM前世療法の魂遡行状態では、顕現化した前世人格が口頭で答えられる割合は10人に1人、約10%以下しか口頭で話せません。
10人のうち9人までが、どうしても口頭で答えることができないと答えます。

ワイス式前世療法では、前世の記憶内容を音声化できないことを聞いたことがありません。
ワイス式体験者は、誰でも前世記憶のビジョンを口頭で報告することが可能です。

SAM前世療法における顕現化した前世人格が口頭で話せないという現象は、SAMの催眠深度がワイス式よりも深く、筋肉の弛緩状態がきわめて深く、声帯も弛緩し切っているので発声できないのではないか、という推測は的外れのようです。

どうも、SAM前世療法の作業仮説に理由が求めることができるのではないかと考えています。
ワイス式前世療法では、「前世の記憶として現れるビジョンをクライアントが報告する」という前提になっています。
あくまでクライアントが、「前世記憶を想起し報告する」のです。

SAM前世療法では、「顕現化した前世人格が、彼の生まれ変わりであるクライアントの身体を借りて対話する(自己内憑依)」という作業仮説でおこないます。

したがって、クライアントは普通、まず、前世人格の喜怒哀楽の感情を共体験します。
ビジョンは、それにともなって体験することになります。
感情のみの共体験で終わる場合も多くあります。
心理療法としての治癒効果は、ビジョンより感情のほうが有益ですから、前世人格の語り内容の真偽を科学的検証にかける目的でなければ、それで大きな問題はないと思っています。

セラピストの対話相手はクライアントではなく、魂表層を構成している、意識体として当時のままの感情で生きている、身体をもたない、前世人格という死者なのです。
死者である前世人格は、身体を失ってすでに長い時間を経ている存在です。
そこで、何人かの顕現化している前世人格に、なぜ話すことができないのかその理由を指で回答してもらうことを試みたところ、「肉体を失ってから長い時間が経過し、声帯と舌の操作の仕方を忘れているからどうしても声に出すことができない」という回答でした。

指や、うなづくという単純な動作なら、現世の身体を借りてその動作で回答することが可能であるということでした。
一理あるとは思いますが、さらに探究する必要があると思っています。

ここで注目すべきは、SAM前世療法においては、クライアントは前世人格の霊媒的な役割を担うということです。
私の創始したSAM前世療法は、クライアントの意識の中に憑依として顕現化した死者である前世人格と、発声器官にしろ指にしろ、クライアントの身体を借用して自己表現をする前世人格と対話するという世界の前世療法にまったく類のない作業仮説に立って展開しているのです。

つまり、クライアントは、自分の身体を自分の魂の表層に存在する前世人格に貸している霊媒的役割を担うことになっているということです。
つまり、前世人格は、自分の生まれ変わりである現世の肉体に憑依している、と考えられます。
この現象はこれまで発見されたことはなく、私はSAM前世療法独自の固有概念として「自己内憑依」と名付けています。

クライアントの魂表層から顕現化した前世人格は、現世クライアントの身体を媒介にして、現在進行形でセラピストと対話をしている、これがSAM前世療法のセッションの構図になっているということです。

「セラピスト」対「自己内憑依した前世人格」との対話、それをじっと「傾聴しているクライアントの意識」という構図をSAM前世療法の固有概念としてセッションの「三者的構図」と名付けています。
そしてまた、三者的構図が、SAM前世療法における治癒仮説でもあります。

クライアントの不都合な症状の原因を、その原因を語る前世人格の語りを傾聴することによって、「ああそうだったのか」と感情をともなった納得すること、つまり洞察が起こることによって、症状の改善が起こると考えられるのです。
この治癒仮説実証の典型が、「SAM催眠学序説その118」の先天性皮膚疾患の治癒事例として、治癒前、治癒経過の4枚の証拠写真とともに公開してあります。

そしてまた、魂の自覚状態にまで誘導し、魂表層に存在する前世人格を呼び出し対話するという固有の作業仮説に基づく前世療法は、SAM前世療法以外に世界中に絶対ありません。
そして、このような信じがたいセッション構図は、「ラタラジューの事例」によって実証されたと思っています。

SAM前世療法のこれまで述べてきた固有の仮説と技法の独自性が認められた結果、すでに流通している「前世療法」の用語があるにもかかわらず、「SAM前世療法」が、第44類(心理療法・医療分野)の登録商法として認可されています。

登録商標「SAM前世療法」は、世界に誇れる純国産の固有の前世療法だと自負しています。

一般に流通しているほとんどすべての「前世療法」は、私がワイス式と呼んでいる、あるいはそのバリエーションの、「前世記憶」にアクセスするという方法論によっておこなわれる舶来の前世療法です。
しかも、語られた前世記憶の信憑性を、科学的に検証した事例報告は皆無です。

さて、里沙さんの前世人格ラタラジューは、セッション中にネパール語話者カルパナさんと次のような現在進行形でのやりとりをしています。

里沙  Tapai Nepali huncha?
   (あなたはネパール人ですか?)
カルパナ  ho, ma Nepali.
   (はい、私はネパール人です)
里沙  O. ma Nepali.
   (おお、私もネパール人です)

つまり、前世人格ラタラジューは、ただ今、ここにいる、ネパール人カルパナさんに対して、「あなたはネパール人ですか?」と、明らかに、ただ今、ここで、問いか け、その回答を確かめているわけで、「里沙さんが潜在意識に潜んでいる前世の記憶を想起している」という解釈がすでに成り立たないことを示しています。

ラタラジュー は、現世の里沙さんの身体(発声器官)を借りて、自己内憑依して、自己表現している身体を持たない意識的存在です。
里沙さんは、カルパナさんとラタラジューのネパール語会話の媒介役として、つまり霊媒的役割としてラタラジューに身体を貸している、とそういうことにほかなりません。

このことは、このラタラジューのセッション後に、研究資料としてお願いして書いていただいた以下の体験記録からも垣間見ることができるでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。
こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。
思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラ タラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの七八年間の生涯を現世 の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で 話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のよ うな存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言 葉を伝えていました。

カルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできまし た。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただこのときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。セッション中の前世人格の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験して いるかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してというのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでに ラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格 が違っていることも自覚していました。 

ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。
こういう現世の私の意識がはっきりあり、片 方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした」
という里沙さんの述懐は、彼女がラタラジューに「体を貸している」霊媒的役割を果たしたことを如実に語っていると思われます。

そして、「稲垣」対「前世人格ラタラジュー」との対話、それを傾聴している「里沙さんの意識」という関係が、前述した「三者的構図」です。

イアン・スティーヴンソンは、退行催眠中に現れた信頼できる応答型真性異言を2例あげています。
ともにアメリカ人の女性2名に現れた「イェンセンの事例(スウェーデン語会話)」と「グレートヒェンの事例(ドイツ語会話)」です。

「ラタラジューの事例」を含めると、催眠下で偶発的に起き、科学的に検証された事例で、公刊されたものとしては、世界でこれまでわずか3例の応答型真性異言しか発見されていません。

ちなみに、スティーヴンソンも「グレートヒェンの事例(ドイツ語会話)」において、私と同様、顕現化した前世人格を「トランス人格」と呼んで、応答型真性異言の話者を、クライアントとは別人格が現れて会話している(『前世の言葉を話す人々』P.9)、ととらえています。
つまり、クライアントが前世の記憶として真性異言を語ったとは考えていません。

生まれ変わりが普遍的事実であるならば、なぜもっと多くのクライアントが応答型真性異言を話さないのか、これは、ほんとうに大きな前世療法の謎です。
多くのクライアントは、日本人以外の前世人格が顕現化する事例を示すからです。

この謎について、里沙さんの守護霊に尋ねたところ、「非常にすぐれた霊媒体質を備えている者だけが、異言を話すことができる」という回答でした。

同様に、霊媒資質を備えたクライアントに顕現化した(自己内憑依した)前世人格だけが、口頭で答えることができる、と類推してよいように思われます。

2016年9月1日木曜日

前世人格と憑依人格の識別の問題


         SAM催眠学序説 その96


この問題は、未知への探究の魅力に富んでいます。

なぜなら、生まれ変わり研究の泰斗イアン・スティーヴンソンすら、催眠中に意識現象として顕現化した人格が、被験者の前世人格なのか、第三者の憑依人格なのか、その識別の考察をしていない、まったく未開拓の研究分野であるからです。

ただし、スティーヴンソンは、被験者のアメリカ人女性が、ドイツ語の応答型真性異言を語った「グレートヒェンの事例」の中で、顕現化したドイツ人少女グレートヒェンに対して「トランス人格」という呼び方をしており、前世人格の顕現化だと認めているらしいと判断できます。

私は、セッション中の「意識現象の事実」として確認してきた諸事実から、他者の憑依人格と前世人格の識別は、「里沙さんに限定」して判断する限り、他者の憑依人格だとは判断できません。
ラタラジューもタエも、里沙さんの前世人格であると判断しています。
その理由を述べてみたいと思います。

なお、この試論は、霊能者と呼ばれる人たちが、自らの「霊感」やら「直感」を根拠に、ラタラジュー人格を里沙さんの前世人格ではなく、他者の憑依人格だと主張されることに対する、私のセッションから得た諸事実に基づく反論でもあります。

憑依人格か前世人格かを見分ける最後のよりどころは、結局、自我を形成する魂は、おのれであるか他者であるかは、魂自身が根源であるがゆえに、見誤ることはあり得ないだろう、という一種の信念に立ち返ることになってきます。

私が里沙さんにセッションから間を置かないで、セッション中の意識状態を内観して記録するようにお願いしたのは、最後は里沙さん自身の「魂」を信頼するほかないと思っていたからです。

①SAM催眠学の作業仮説に基づき、ラタラジューは「魂の表層」から呼び出している。魂がおのれの一部である前世人格と「異物」である憑依人格と見誤ることはありえない。
ゆえに、魂の表層のものたちが作り出しているはずの「意識」の内観記録を信頼することは道理に適っている。

②SAM前世療法の経験的事実として、ラタラジューが最初から憑依しているとしたら、魂状態の自覚に至ることを妨害する。
したがって、里沙さんは魂状態の自覚に至ることができない。
しかし、事実はすんなり魂状態の自覚に至っている。
つまり、憑依霊はいないということになり、ラタラジューが最初から憑依していた可能性はまず考えられない。

③魂の自覚状態に至ると、霊的存在の憑依が起こりやすくなる。低級霊も高級霊も憑依することはセッションに現れる意識現象の事実である。
したがって、魂状態をねらってラタラジュー霊が憑依した可能性を完全に排除できない。
しかし、4年前のセッションで、タエの次の前世としてすでにラタラジューは顕現化している。
今回も、ラタラジューという前世人格を「呼び出して」顕現化させた。
憑依が、呼び出しによって起こった可能性は考え難い。
もし、魂表層への呼び出しによって低級霊の憑依が起こるとすれば、SAM前世療法で現れた人格はすべて他者の憑依霊ということになりかねない。

④SAM前世療法は、呼び出した前世人格との対話によって、その人格が癒され、連動してモニターしている現世の意識も癒しを得るという治療仮説を持っている。
前世人格ではなく、異物である憑依人格を癒して、これと関係の全くない現世の意識が連動して癒されるとは考えにくい。
里沙さんはラタラジューについて同一性の自覚を持っている。
そして、第一にモニター意識が、憑依人格を異物として感知しないはずがない。
第二に憑依が起きたとすれば、人格を占有されるわけで、その間の記憶(モニター意識)は欠落する。
これはシャーマニズム研究の報告とも一致する。
シャーマンは憑依状態の記憶が欠落することが多いとされている。
里沙さんも守護霊憑依中の記憶は完全に欠落することが、過去3回の守護霊の憑依実験から明らかになっている。
しかし、ラタラジュー顕現化中の記憶は明瞭にあると報告している。
それは、ラタラジューが憑依霊ではない状況証拠である。
憑依ならば、里沙さんの場合、その間の記憶は完全に欠落しているはずである。
しかも、ラタラジューには、真性異言会話実験後、魂の表層に戻るように指示し、戻ったことを確認して催眠から覚醒してもらった。
憑依霊が、私の指示に素直にしたがって憑依を解くとは考えられない。
ラタラジューが憑依霊であれば、高級霊とは考えにくく、低級霊であろう。
とすれば、憑依を解くための浄霊の作業なしに憑依が解消するとは考えられない。

⑤被験者の潜在意識は原則嘘をつかない。
魂状態に戻ったときに憑依した霊は、セラピストの問いかけに未浄化霊であれば、救いを求める憑依であることを告げる。
沈黙をしているときは、「悪いようにはしないから正体を現しなさい」と諭すとたいていは未浄化霊であることを認める。
手強い沈黙に対しては脳天に手をかざし霊体に向かって不動明王の真言を唱えると正体を現す。
クライアントは痙攣、咳き込み、のけぞりなどの身体反応を示す。

⑥そして、里沙さんは、四年前の「タエの事例」後、他者に憑いた霊や自分に憑こうとしている霊を感知し、それは悪寒という身体反応によって分かると言っている。
ある種の霊能らしきものが覚醒したらしい。
その霊能は、彼女の知人の二名の評価の高い霊能者から認められている。
ちなみに、この二名の霊能者は、ラタラジューが憑依であることをきっぱり否定している。
このような里沙さんが、ラタラジュー霊の憑依を感知できないとは考えにくい。
憑依であるなら、彼女が自ら感知し、違和感を訴えるはずである。  

以上はSAM前世療法によって、これまでに現れている「意識現象の事実」に基づく考察です。
こうした諸事実からも、「里沙さんに限定すれば」、ラタラジューが憑依霊であるとは考えられないというのが私の判断です。
まとめてみると、憑依人格と前世人格を識別する一応の指標として
① 被験者に現れた人格の会話中の記憶の有無
② 被験者に現れた人格とおのれとの同一性の自覚の有無
を区別するための仮説として設定しています。

私の判断の根拠になっている、里沙さんのセッション中の内観記録を下記に再掲します。
あくまでラタラジュー霊の憑依を主張される人は、この内観記録が憑依をされている人物の書くことのできるものと考えられるでしょうか。

ちなみに、応答型真性異言発話中の意識内容の内観記録は世界的にも一切公開された例がなく、里沙さんの手記はきわめて貴重なものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
セッション中とその後の私の心情を述べたいと思います。

こうした事例は誰にでも出現することではなく、非常に珍しいことだということでしたので、実体験した私が、現世と前世の意識の複雑な情報交換の様子を細かく書き残すのが、被験者としての義務だと考えるからです。

思い出すのも辛い前世のラタラジューの行為などがあり、そのフラッシュバックにも悩まされましたが、こうしたことが生まれ変わりを実証でき、少しでも人のお役に立てるなら、すべて隠すことなく、書くべきだとも考えています。

ラタラジューの前に、守護霊と稲垣先生との会話があったようですが、そのことは記憶にありません。
ラタラジューが出現するときは、いきなり気がついたらラタラジューになっていた感じで、現世の私の体をラタラジューに貸している感覚でした。
タエのときと同じように、瞬時にラタラジューの78年間の生涯を現世の私が知り、ネパール人ラタラジューの言葉を理解しました。

はじめに稲垣先生とラタラジューが日本語で会話しました。
なぜネパール人が日本語で話が出来たかというと、現世の私の意識が通訳の役をしていたからではないかと思います。
でも、全く私の意志や気持ちは出て来ず、現世の私は通訳の機器のような存在でした。
悲しいことに、ラタラジューの人殺しに対しても、反論することもできず、考え方の違和感と憤りを現世の私が抱えたまま、ラタダジューの言葉を伝えていました。

対話相手のカルパナさんがネパール語で話していることは、現世の私も理解していましたが、どんな内容の話か詳しくは分かりませんでした。
ただ、ラタラジューの心は伝わって来ました。
ネパール人と話ができてうれしいという感情や、おそらく質問内容の場面だと思える景色が浮かんできました。
現世の私の意識は、ラタラジューに対して私の体を使ってあなたの言いたいことを何でも伝えなさいと呼びかけていました。
そして、ネパール語でラタラジューが答えている感覚はありましたが、何を答えていたかははっきり覚えていません。
ただ、このときも、答えの場面、たとえば、ラタラジューの戦争で人を殺している感覚や痛みを感じていました。

セッション中、ラタラジューの五感を通して周りの景色を見、におい、痛さを感じました。
セッ ション中の前世の意識や経験が、あたかも現世の私が実体験しているかのように思わせるということを理解しておりますので、ラタラジューの五感を通してとい うのは私の誤解であることも分かっていますが、それほどまでにラタラジューと一体化、同一性のある感じがありました。
ただし、過去世と現世の私は、ものの考え方、生き方が全く別の時代、人生を歩んでいますので、人格が違っていることも自覚していました。 

ラタラジューが呼び出されたことにより、前世のラタラジューがネパール語を話し、その時代に生きたラタラジュー自身の体験を、体を貸している私が代理で伝えたというだけで、現世の私の感情は、はさむ余地もありませんでした。

こういう現世の私の意識がはっきりあり、片方でラタラジューの意識もはっきり分かるという二重の意識感覚は、タエのときにはあまりはっきりとは感じなかったものでした。

セッション後、覚醒した途端に、セッション中のことをどんどん忘れていき、家に帰るまで思い出すことはありませんでした。
家に帰っての夜、ひどい頭痛がして、頭の中でパシッ、パシッとフラッシュがたかれたかのように、ラタラジューの記憶が、再び私の中によみがえってきました。

セッション中に感じた、私がラタラジューと一体となって、一瞬にして彼の意識や経験を体感したという感覚です。
ただ全部というのではなく、部分部分に切り取られた記憶のようでした。
カルパナさんの質問を理解し、答えた部分の意識と経験だと思います。
とりわけ、ラタラジューが、カルパナさんに「あなたはネパール人か?」と尋ねたらしく、それが確かめられると、彼の喜びと懐かしさがどっとあふれてきたときの感覚はストレートによみがえってきました。 

一つは、優しく美しい母に甘えている感覚、そのときにネパール語で「アマ」「ラムロ」の言葉を理解しました。
母という意味と、ラタラジューの母の名でした。

二つ目は、戦いで人を殺している感覚です。
ラタラジューは殺されるというすさまじい恐怖と、生き延びたいと願う気持ちで敵に斬りつけ殺しています。肉を斬る感覚、血のにおいがするような感覚、そして目の前の敵が死ぬと、殺されることから解放された安堵で何とも言えない喜びを感じます。
何人とまでは分かりませんが、敵を殺すたびに恐怖と喜びが繰り返されたように感じました。

現世の私は、それを受け入れることができず、しばらくの間は包丁を持てず、肉料理をすることが出来ないほどの衝撃を受けました。
前世と現世は別のことと、セッション中にも充分過ぎるほどに分かっていても、切り離すのに辛く苦しい思いをしました。

三つ目は、ネパール語が、ある程度わかったような感覚です。
時間が経つにつれて(正確には夜、しっかり思い出してから三日間ほどですが)忘れていってしまうので、覚えているうちにネパール語を書き留めてみました。
アマ・ラムロもそうですが、他にコド・ラナー・ダルマ・タパイン・ネパリ・シャハ・ナル・ガウン・カトマンズ・ブジナ・メロ・ナムなどです。
 
四 つ目は、カルパナさんにもう一度会いたいという気持ちが強く残り、一つ目のことと合わせてみると、カルパナさんの声はラタラジューの母親の声と似ていたの か、またはセッション中に額の汗をぬぐってくれた感覚が母親と重なったのか(現世の私の額をカルパナさんが触ったのに、ラタラジューが直接反応したのか、 現世の私がラタラジューに伝えたのか分かりませんが、一体化とはこのことでしょうか)。
母を慕う気持ちが、カルパナさんに会いたいという感情になって残ったのだろうと思います。

セッション一週間後に、カルパナさんに来てもらい、ネパール語が覚醒状態で理解できるかどうか実験してみましたが、もう全然覚えてはいませんでした。

また、カルパナさんに再会できたことで、それ以後会いたいという気持ちは落ち着きました。

以上が今回のセッションの感想です。

このことから、私が言えることは、

①生まれる前から前世のことは知っていたこと、それを何かのきっかけで(私の場合はSAM前世療法で)思い出したこと。

②生まれ変わりは、信じる信じないの問題ではなく、事実として間違いなく確かにあること。

③前世にとらわれることなく現世を生きなければならないこと、です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

里沙さんの以上のようなセッション中の意識状態を内観した記録を検討すれば、ラタラジューを他者の憑依人格だと考える判断の根拠は、ほとんど考えられないと思います。

催眠下で顕現化した人格が、前世人格であるのか憑依人格であるのかという疑問は、「前世の記憶の想起」を前提にしたワイス式前世療法にはまったく問われることのない問題です。

「前世記憶の想起」ではなく、「前世人格の顕現化」を作業仮説とするSAM前世療法であるからこそ、必然的につきまとう特有の根本的かつ重大な問題です。

そして、この問題は、SAM催眠学とSAM前世療法の存立にかかわって、今後も継続して探究を必要とする問題であると認識しています。