2016年2月28日日曜日

SAM催眠学序説 その85

SAM催眠学とスピリチュアリズム


スピリチュアリストとは、スピリチュアリズムを受容している人を言います。
スピリチュアリズムとは霊的真理を説く思想であり、科学でもあり、信仰でもあります。


霊的真理とは、霊界と霊的存在の実在を認めること、霊界と地上世界とは交信できることを認めること、霊魂と生まれ変わりを認めること、などを指しています。
そしてこれら霊的真理を完全に受け入れている人を「確信的スピリチュアリスト」と言います。

私は、2006年5月に『前世療法の探究』出版以後、様々な霊的現象が津波のごとく押し寄せ、その検証過程で、霊的真理を受け入れざるを得ないようになっています。
スピリチュアリズムの聖典であるシルバーバーチやスティトン・モーゼスやアラン・カルディックなどの霊信記録の本を読み、共鳴したわけではありません。
霊能者と呼ばれる特殊能力者の言説に影響されているわけでもありません。
私は、そうしたもっともらしいことに興味は持っても、鵜呑みにできない左脳的人間で、懐疑的思考のほうが勝っています。
自ら実証できたことが第一義という立場を崩すことができない霊的に無能者と言ってよい人間です。
したがって、私は、霊的な世界というものを、徹底的に疑って知的に否定した後に、それでも認めざるを得なくなった立場がスピリチュアリズムということになります。


「SAM前世療法」の作業仮説は、私あて霊信の恩恵抜きには生まれなかったことは確かですし、その作業仮説によって、応答型真性異言現象をこの手で確認し実証してからは、霊信の事実や、霊魂の存在と生まれ変わりを事実として認めないわけにはいかなくなっています。
おまけに、ヒーリングや浄霊らしき能力が備わってきたという事実も確認しています。

そうした意味で、敢えて言うなら、私は「実証的スピリチュアリスト」なのだろうと思います。

なぜ、私が実証的スピリチュアリストになっていったのか、それへと否応なしに引き寄せたエピソードを紹介していきます。

前世遡行に成功し「タエの事例」を語った2005年6月4日から一週間ほど経って、里沙さんの左腕が赤黒く変色するという異変が起こ りました。
赤黒い変色とともに重くだるいという自覚症状を心配した彼女は、医師の診察を受けましたが特に医学的所見はなく、経過を見ましょうという ことでした。
そうした中、蛍見物に出かけ、舞っている蛍に向かって左手のひらを広げたところ、5~6匹ほどの蛍が左手のひらにとまったそうです。
蛍は羽根を 休めて後、数分して飛び去りました。
この事実は同行した信頼に足る目撃者からの証言を得ています。
また、左腕の変色と重くだるいという症状はこの後消失した そうです。

この不思議な現象に遭遇した里沙さんは、タエとしての前世で、左腕を切り落とされたことが咄嗟に脳裏に閃(ひらめ)いたそうです。
そして、左手 のひらから何らかのヒーリングエネルギーが放射されているので、衰弱した蛍がエネルギー補給のために飛んできたのではないかと直感しました。
そこで、ご主 人や知人の腰痛・肩凝り・関節痛等にヒーリングを試したところ顕著な改善効果が確認されたとのことです。

こうしたヒーリング能力の出現と同時に、直接でも遠隔透視によってもオーラが見えるようになったと言います(ただし、強い輝きを放っている人の 場合に限るとのこと)。
さらに、生き霊や死霊(未浄化霊)が取り憑いていると、その人の名前・住所など本人が特定できる情報を聞いただけで、悪寒・吐き気・頭痛など体調が悪化するという反応が起こるようにもなったそうです。
厳密な検証実験をしたわけではありませんが、何らかの霊的能力が発現 したように思われます。

過去の文献にも、非常に深い催眠体験後、稀に透視など超常能力が出現したという報告があるのですが、どうやら里沙さんにも、「タエの事例」を体験したことを境に、そうした超常的能力ないし霊的能力が出現したことは、かなり可能性が高いと判断しています。

『前世療法の探究』出版二ヶ月後の2006年8月31日、私にヒーリング能力があることが偶然発見されました。
以来、母親の股関節痛へのヒーリングに始まり、その数は数百名近くになると思います。肩凝りをはじめ腰痛・背中痛・五十肩・股関節痛・ アトピ-性皮膚炎・椎間板ヘルニア・子宮筋腫の痛み、子宮腫瘍・心筋梗塞発作・ふくらはぎ筋肉痛、大腸 癌等に実施して改善効果の検証をしてきましたが、成績は良好です。
特に痛みの解消と血行改善には効果がみられます。

私のやり方は、両手の平(左手のほうがエネルギーが強いようです)を五分間患部に軽く当てるだけです。
当てると同時に、どこかから送ってくる であろう存在に対して、「この者に必要な最良の治療をお願いします」と念じますが、その後は精神集中などは全く不要で、テレビを見ようが会話をしようが一 向に構わないのです。
ただし、このエネルギーは、意志によるコントロールは不能です。向こう側からやってくるのにお任せというわけです。
クライアントは、懐炉を当てているような明らかに私の体温以上の熱感を感じることが多いようです。
なかには、ヒリヒリした感じとか、もわもわした圧力やひんやりした感じ、あるいは頭頂部や指先までエネルギーが走る感じや、汗が出るのを報告する クライアントもいます。
また、エネルギーの放射能力を伏せて、相手の手のひらに私の手のひらを三センチ程度近づけても、熱感やヒリヒリ感、モワモワした圧力感などを感 知すると報告しますから、これが暗示効果によるものでないことは明らかです。
計測不能の何らかのエネルギーが手のひらの中心辺りから放射されている事実は 間違いないと思われます。
手のひらにも、微細な振動をしている薄い膜が張った感じがあり、その膜に熱を帯びた感覚があらわれます。
私は、気功やレイキなどのエネルギー療法を見たことも、訓練したことも一切ありませんし、そもそもエネルギー療法については極めて懐疑的な立場 でした。せいぜい暗示効果ないし、プラシーボ効果によるものであろうと思っていました。
そういう懐疑的な自分にヒーリング能力が突如現れたことが何とも不 可解で奇異な感じがしています。
容易には認めがたいのですが、これはひょっとすると、霊による治療、すなわちスピリットヒーリングが起こっているのではな いかと思います。
それは、いわゆる「気」などの、見えない身体エネルギーによるヒーリングとは違って、自分が極度に集中する必要もなく、まったく疲れることもな いということ、そして、遠隔治療においても効果があるからです。
さらに、霊が見えると主張する三名の人からは、私の背後に複数のよい霊が見える、あるい は感じると指摘されました。
デモンストレーションを見学したやはり霊的な感受性があると主張する三名からは、手のひらから白い霧状の粒子が盛んに放射さ れているのが見えたと報告を受けています。
こういったことに実証性があるわけではありませんが、ありうることではないかと思っています。

2006年12月22日、里沙さんにお願いして彼女の守護霊との直接対話実験をさせてもらいました。
深い催眠中に中間世へと導き、そこで偉大な存在者 を呼び出して憑依してもらい、私が直接対話するという実験は、前掲書の「タエの事例」で紹介してあるとおりです。
それを再度試みようというわけです。
その理 由は次のような四つの質問の回答を得るためであり、憑依の真偽の検証を試みるためでもありました。

①タエの事例は、偶然語られたものか、何かわけがあって語られたものか?
②稲垣に突如あらわれたヒーリングのエネルギーは、どこから送られてくるものか?その治療エネルギーが稲垣にあらわれた理由が何かあるのか?
③スピリットヒーリング能力のある者は、たいていは霊視などの霊能力を持っているが、稲垣のエネルギーがそうであるなら、なぜ稲垣に霊能力がないのか?
④稲垣の守護霊の素性が分かるならその名を教えてもらえないか?

実験前に彼女に伝えておいた質問内容は、前述②(筆者のヒーリングエネルギーの出所)のみで した。①③④の質問について彼女には知らせることを意図的に伏せて実施しています。
伏せた意図は、彼女に前もって回答を準備できる時間を与えないためで す。

里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊と思しき存在との40分にわたる対話の録音を起こし、できるだけ生のままの語りの言葉を用いて、上記四つの 質問に対する回答を要約してみると以下のようになります。ただし、質問はこれ以外にもいくつかしていますから、それらの回答を含めて次の5項に整理し要約 してあります。

①タエの事例は偶然ではありません。計画されあなたに贈られたものです。計画を立てた方はわたくしではありません。計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。

②あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。治療霊は一人ではありません。治療霊はたくさんおられます。その治療霊が、自分の分野の治療をするために、あなたを通して地上の人に治療エネルギーを送ってくるのです。

③あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。今、あなたの魂は大きく 成長し、神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなた が約束を果たすための手段として神が与えた力です。しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。善人にのみ効果があらわれます。悪とはあなたの進む 道を邪魔する者です。今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。

④神はあなたには霊能力を与えませんでした。あなたには必要がないからです。霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。

⑤守護霊に名前はありません。わたくしにも名はありません。あなたの守護霊はわたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。そうい う高い霊格の方に守られている分、あなたには、成長のためにそれなりの試練と困難が与えられています。これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてが はじめからの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりま せん。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。霊能力がなくても、あ なたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。それがあなたが迷ったときの判断の元になります。あなたに神の力が注がれています。与えられ た力を人を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。

里沙さんに憑依したと思われる、彼女の守護霊とおぼしき存在は、以上のようなメッセージを回答として伝えてきました。
そのときの語りの様子は、「タ エの事例」で憑依実験したときと同じく、彼女の表情は能面様の全くの無表情に変化し、声は低音で、囁くような、抑揚のない、ゆったりと厳かな調子の、別人同様の声音に変化していました。
観察される限りでは、ふだんの里沙さんとは別人格の第三者が語ったように思われます。
憑依を解き、催眠から覚醒直後の里沙さんは、数分間話そうにも声が出ない状態になり、膝から下が冷え切って麻痺し、立ち上がれないという疲労の 極みに陥っていました。
立てるようになるまで20分ほど休んでから帰宅しましたが、翌日になっても疲労は回復せず動けない状態が続き、三日目にやっと回復 したという報告を受けています。

さて、これまで2005年6月4日の「タエの事例」セッション以後、里沙さんと稲垣 にあらわれた三つの超常的能力・現象について紹介してきました。
このうち、ヒーリング等の超常的能力出現については検討するまでのない事実として認めざるをえません。
では里沙さんの守護霊を主語とする存在者 の語りはどうでしょうか。
語られた内容について、できるだけ公正な立場に立って検討・考察をしてみたいと思います。
ただし、この検討・考察は、自分にはス ピリチュアリズムに関する知識・情報がない、という里沙さんの証言を前提としていることをお断りしておきます。
また、超ESP仮説(里沙さんが稲垣の心も 含め、地上のどのような情報にも自由にアクセスできる無制限なESP能力を持っているとする仮説)も、ここでは考慮外としています。

ここで検討してみることは、守護霊を守護とする語りの内容は里沙さんの既有の知識を元に彼女自身が語ったのだ、と解釈できるかどうかということです。
そうであるならば、守護霊とおぼしき存在者は、里沙さんの無意識的な役割演技で説明されうることになり、語りの事実が超常的現象である可能性は排除されるからです。
以下にまず全体の考察を、次いで守護霊の語り①~⑤の語りの内容について、それぞれに検討と考察を加えてみます。

まず、全体としての考察をしてみますと

①「存在者」は、里沙さんとは異なる位相の視点・情報から発話している。
②催眠を解く前に「催眠中に語ったことはすべてはっきり思い出せる」という暗示を強 調したにもかかわらず、「存在者」が憑依したと思しき間の里沙さんの記憶は完全に 欠落している。
③録音された自分の語りを試聴した里沙さんの実感として、声からも語りの内容からも、自分と「存在者」とは全く同一性の感じられない他者であると認識されている。
④憑依を体験し、催眠から覚醒後の里沙さんの疲労状態は、通常の催眠後とは明らかに異質な極度の疲労状態に陥っている。

以上の4点は、「存在者」の憑依を支持できる状況証拠だと考えることが可能でしょう。
ただし、①については本人に内在している「心の力」つま り、「高位自我=ハイヤーセルフ」説で説明可能かも知れません。
深い催眠中には、通常の里沙さんの持つ能力をはるかに超えた超常的叡智が現れるというわけ です。
しかし、②・③については「高位自我」説では説明が収まり切れません。
もともと里沙さんの心に内在している「高位自我」の語りであれば、解催眠 前に強調した記憶再生暗示で、催眠後にその語りの内容が記憶として出てくるはずだと考えられるからです。
また、彼女に解離性同一性障害などの精神障害がな いことは明白ですから、「存在者」の語りに対して全く同一性を感じられないということも説明が困難です。
単に催眠性健忘として片付けられる問題ではないと 考えられます。
④の極度の疲労感について確かなことは言えませんが、憑依した「存在者」が里沙さんに長時間(約40分間)の対話をさせるために、彼女の脳髄が酷使された結果ではないかという解釈ができるかも知れません。

次に守護霊 の①~⑤の語りについて一つずつ検討してみましょう。
 
まず守護霊の①の次語りの内容について検討してみます。

①タエの事例は偶然ではありません。計画されあなたに贈られたものです。計画を立てた方はわたくしではありません。計画を立てた方はわたくしよりさらに上におられる神です。
タエの事例が出版されることも、新聞に掲載されることも、テレビに取り上げられることもはじめから計画に入っていました。あなたは人を救うという計画のために神に選ばれた人です。

里沙さんのスピリチュアリズムについての知識は、治療霊が存在すること以外にはありません。したがって、スピリチュアリズムでいう「神の計画」つ まり、地上の人間に霊的真理(魂と生まれ変わりの存在、霊界の存在、霊との交信可能など)を啓発し、霊的覚醒を促す計画があることは知識として持っている はずのないものです。
彼女の無意識の役割演技などでは淀みなく発話される内容ではないと思われます。
この計画についての語りは、スピリチュアリズムの高級霊からの霊信内容に一致していると考えることができるでしょう。

②あなたのヒーリングエネルギーは、霊界におられる治療霊から送られてくるものです。治療霊は一人ではありません。治療霊はたくさんおられます。その治療霊が、自分の分野の治療をするために、あなたを通して地上の人に治療エネルギーを送ってくるのです。

上記 ②の治療霊の存在については、里沙さんの知識としてある程度あるはずです。
彼女の脊柱側湾症による痛み改善のためにヒーリングをした機会に、ヒーリングエ ネルギーと治療霊について話題にしているからです。
また、彼女は霊感によって、稲垣の背後に憑いている複数の治療霊らしき霊の存在を感知できると語ってい るからです。
しかも、稲垣のヒーリング能力についての質問をすることについては、催眠に入る前に彼女に知らせてありました。
したがって、治療霊とその治療 エネルギーについての守護霊の回答は、彼女の既有の知識を語った可能性を排除できません。

③あなたの今までの時間は、あなたの魂と神とが、あなたが生まれてくる前に交わした約束を果たすときのためにありました。今、あなたの魂は大きく成長し、 神との約束を果たす時期が来ました。神との約束とは、人を救う道を進むという約束です。その時期が来たので、ヒーリング能力も前世療法も、あなたが約束を 果たすための手段として神が与えた力です。しかし、このヒーリングの力は万能ではありません。善人にのみ効果があらわれます。悪とはあなたの進む道を邪魔 する者です。今あなたを助ける人がそろいました。どうぞたくさんの人をお救いください。

守護霊の語り上記③の、稲垣が生を受ける前の「魂」と「神との約束」についての語りは、里沙さんの想像力が駆使され、稲垣への願望が投影された彼女の役割演技だと解釈できるかもしれません。
しかし、稲垣にヒーリング能力があらわれた理由がそれなりに矛盾なく説明され、瞬時に淀みなく語られた事実を考えると、守護霊と呼ぶ「存在者」 の憑依可能性を否定できるものではないと思われます。
ちなみに、「稲垣の魂が大きく成長した」という語りは、「タエの事例」に遭遇以来、世界観・価値観が 魂と生まれ変わりの存在を視野に入れたものへと転換し、現世的欲望へのとらわれから自由度を増した精神状態を指している気がしないわけでもありません。


④神はあなたには霊能力を与えませんでした。あなたには必要がないからです。霊能力を与えなかった神に感謝をすることです。

上記の④の守護霊の語りについては、理解に苦しむところです。
稲垣に霊的能力がなくそれらに懐疑的な普通の人間の側にいるからこそ、懐疑的な普通の人間への霊的真理の啓発には却って説得力を持ち得るので、神の道具としての啓発者には適っている、という意味かも知れません。
こう考えてみると「霊能力を与えなかった神に感謝をすることです」という意味深い語りは、里沙さん自身の通常の意識からは到底出てくるはずのないもののように思われます。まして、その場の咄嗟の思いつきで回答できる類の語りだとは考えられないと思われます。

⑤守護霊に名前はありません。わたくしにも名はありません。あなたの守護霊はわたくしよりさらに霊格が高く、わたくしより上におられます。そういう高い霊 格の方に守られている分、あなたには、成長のためにそれなりの試練と困難が与えられています。これまでの、あなたに生じた困難な出来事のすべてがはじめか らの計画ではありませんが、あなたの魂の成長のためのその時々の試練として与えられたものです。魂の試練はほとんどが魂の力で乗り越えねばなりません。わ たくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません。わたくしたちは魂の望みを叶えるために、魂の成長を育てる者です。霊能力がなくても、あなたに閃 くインスピレーションが守護霊からのメッセージです。それがあなたが迷ったときの判断の元になります。あなたに神の力が注がれています。与えられた力を人 を救う手段に使って人を救う道に進み、どうぞ神との約束を果たしてください。 


上記⑤の語りは、まさにスピリチュアリズムの霊信そのものだと言っていいでしょう。そして、「守護霊に名前はありません」「魂の試練はほとんど が魂の力で乗り越えねばなりません。わたくしたちはただ見守るだけです。導くことはありません」「あなたに閃くインスピレーションが守護霊からのメッセー ジです」などの具体的な語りは、スピリチュアリズムの高級霊たちの霊信と一致し、正当な守護霊の語りとしてその信憑性が保障されているように思われます。
ここで浮上してくるのが、里沙さんはシルバーバーチなどスピリチュアリズムに関する書籍を読んでおり、それを元に語ったのではないかという疑い です。しかし、これについて彼女はきっぱり否定しています。また、それを信ずるに足る録音試聴後の感想があります。彼女は感想として次のように語っていま す。

私の守護霊は阿弥陀如来だ、と高名な信頼できる霊能者から霊視してもらって、そう信じていました。だから、私自身が守護霊の役割演技をして語る としたら、守護霊に名前はありませんとは絶対言わないと思います。阿弥陀如来です、と言ったはずです。私の守護霊に名前がないと言われてちょっとショック です。阿弥陀如来以上の守護霊はいないと思っていたから、稲垣先生の守護霊より霊格が上だと思って、密かに優越感があったのに、稲垣先生の守護霊のほうが 霊格が高いと言われたのもショックです。

つまり、彼女にスピリチュアリズムの知識があったとすれば、自分の守護霊を阿弥陀如来だなどと信じることはまず考えられません。
高級霊は原則素 性を明かさない、というのがスピリチュアリズムの常識ですから、彼女の守護霊についての知識は、仏教の説く「守護仏」と混同している程度の知識でしかな かったと判断できるわけです。
このように検討してみると、⑤の語りの主体は、里沙さん以外の憑依した「存在者」である可能性が高いと判断できるように思われます。

こうして検討を重ねてきますと、憑依したと思しき守護霊の回答は、里沙さんの意識が投影された役割演技だと解釈するよりも、彼女が霊媒の役割を果たし守護霊からの霊信を伝えたものと素直に受け取るほうが妥当性が高いのではないかと思われます。 
ただし、そのように受け取るにしても、ここで述べられている内容が、絶対的に真実であると主張しているわけではありません。
SAM前世療法を始めとする稲垣の活動を、こうした言葉によって権威づけようとする意図も全くありません。
あくまで何らかの霊的存在者の一意見として、どこまでも冷静に受け 止めるべきだと考えています。
こうした言葉で自己を権威づけたり絶対化することはあってはならないことで、徹底して厳しく自戒すべきだと思っています。
特に「神の計画」「神との約束」「善と悪」といった事柄を、軽々に云々することは、極めて大きな問題をはらむものです。
こうした表現の取り扱いについては、十分過ぎるほど慎重であるべきだと考えています。
こうした催眠による里沙さんへの憑依実験の前後から、稲垣の関心は、宗教思想であり霊の科学でもあるスピリチュアリズムへと必然的に向かわざるをえないようになっていきました。
そして、私の脳裏に思い起こされたのはモーゼスの『霊訓』にある次の一節でした。

 霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。(中略)
 筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提 供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲す る者には、神の深き真理に通暁(つうぎよう)せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命について啓示を垂れさせる。かくのごとく人間にはその程度に応じ た霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。
 今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムにほかならぬ。(中略)
 常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。
                  (近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第1巻、国書刊行会)

インペレーターと名乗る高級霊からのこの霊信に、報告した三つの超常的現象を引き当てて考えてみますと、この引用部分は稲垣に向かって発信された啓示であるかのような錯覚すら覚えます。
SAM前世療法にとりかかる前の私は、「筋の通れる論証の過程を経なければ得心のできぬ者」のレベルにありました。
だから、「秩序と連続性の要素を持つ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく」ために、「動かぬ証拠」としてタエの事例をはじめとして、ヒーリング能力の出現などの超常的現象が、霊界から私に次々に提供されているような気がしていました。
そうした直感の真偽を確かめるために、里沙さんの守護霊に尋ねてみるという憑依実験を試みたわけです。
その結果と検討・考察は、これまでに報告 したとおりです。この検討・考察は「常に分別を働かせねばならぬ」と言うインペレーターの忠告に従っていることにもなるのでしょう。
そして、分別を働かせ た結果の帰着点は、霊魂と霊界の存在を排除しては説明できないのではないかということでした。
かつての私であれば、ヒーリング効果の解釈として、プラシーボ効果であるとか、暗示効果であるとか、信念の心身相関による効果であるとかの知的・科学的説明に躍起となって、それを公正な態度だと信じて疑わなかったと思います。

しかし今、自分自身に突如ヒーリング能力があらわれ、その説明は霊界と霊魂の存在抜きでは考えられない事態になってきたように思われました。
そして、「動かぬ証拠」を次々に提供され、ようやく「霊的真理の初歩段階」を卒業しかけていることを感じています。
やはり人間は、最後は 自分自身の直接体験にこそ、自明の真実性・説得力があると言わざるをえません。
交霊能力のあったスピリットヒーラーであるハリー・エドワーズは、高級霊界が霊的治療によって地上の人々を霊的覚醒に導く計画であることを知っ ていたと言います(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』国書刊行会)。

里沙さんの守護霊が伝えてくれた、「人を救うという計画」という語 りがそれを指しているとすれば、「人を救う道に進むという神との約束を果たす時期が来た」私は、催眠とヒーリングを道具に、人のお役に立つ道に進むよう な流れに乗っているのかも知れないと思い始めたのです。
そして、これからの自分が、催眠とヒーリングを与えられた道具として役立たせる道を実践していくことができれば、ヒーリングの謎も守護霊の語り の真実性も、おのずと開示されていくのではないかと思います。
また、そうした開示がされないにしても、うまれかわり探究の道を愚直に進む過程で、懐疑的な態 度を離れて霊的な現象をありのままに認めていくようになっていくのではないかと思われます。

さらに、この憑依実験の直後2007年1月11日~2月14日に受信者M子さんの自動書記による霊信を受け取るという超常現象が起こりました。
この霊信については本ブログに公開してあります。
そして、この霊信の真偽を検証するための作業仮説によるSAM前世療法を試みることになっていきました。


こうして、SAM前世療法によって、2009年5月9日、生まれ変わりの動かぬ証拠である応答型真性異言現象「ラタラジューの事例」と遭遇することに至り、私はスピリチュアリズムの説く「霊的真理」をいよいよ認めざるをえないことになっていったのです。

SAM催眠学は、これまでの科学としての催眠学が、科学を標榜するがゆえに排除してきた深い催眠下における霊的意識現象を取り上げ、実証的に霊的真理を探究しようという試みです。

2016年2月15日月曜日

SAM催眠学序説 その84

「タエの事例」を評価していただいた書評の紹介

この書評は、HP「東京スピリチュアリズムラボラトリー」の記事として掲載されているものです。
HP名から分かるとおり筆者は、確信的スピリチュアリストと呼んで間違いない方でしょう。
したがって、スピリチュアリズムの観点に引き寄せた独特の書評になっていると思われます。

ただし私は『前世療法の探究』執筆の時点まで、「スピリチュアリズム」という用語すら知らない、唯物論側の人間でした。
SAM前世療法はまだ開発されておらず、霊的存在についてはまったく無知の状態でおこなったセッションで「タエの事例」が出現したというわけです。

「タエの事例」のセッション中に、実験的にタエの守護霊と思われる「偉大な存在者」の憑依実験をおこない、私は、そこで顕現化した「偉大な存在者」と25分間の直接対話をしました。

そして、執筆にあたって、この「偉大な存在者」をどう解釈するか、という難問に突き当たりました。
催眠学的解釈をすれば、被験者里沙さんが、セラピストである私の意図(要求)に無意識的に応えようとした結果ーこうした心理を「要求特性」といいますー「偉大な存在者」のふりをして役割演技をしたのだ、という解釈ができないわけではありません。

しかし、その後のポリグラフ検査で明らかになったように、里沙さんの知り得るはずのない情報を「偉大な存在者」が語っていることは明らかです。
催眠学的解釈では、この難問にどう考えても答えを出すことは出来ません。
あるいは、その他の臨床心理学的解釈によっても納得できる解釈を導き出すことは出来ません。
つまり、これまでの(現行の)唯物論的解釈を断念するしかないだろうと思われました。

こうして、初めて私はほとんど無関心であった「霊」の存在について、否応なしに向き合わざるをえないことになりました。

2006年5月に『前世療法の探究』を刊行し、翌2007年1月11日~2月14日の間、当時26歳の派遣社員であった読者M子さんを経由して(霊媒として)、私あて霊信が毎夜届くという超常現象が起こり、この霊信内容の真偽を検証する過程で、「SAM前世療法」が開発されていったといういきさつがあります。

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「前世記憶」の真偽を検証した日本初の試み
   ――稲垣勝巳『前世療法の探究』の紹
  



 著者は岐阜県の学校教頭で、長年生徒相談などで教育催眠に取り組んできた人のようです。プロの催眠療法士でも、催眠術師(?)でもないということが、逆に本書の内容の誠実さを高めるものかもしれません。
 まえがきに「本書の第二章で紹介する、『タエの事例』に遭遇し、『前世記憶の真偽』の問題に直面することになりました。……筆者が本書を世に問おうと 思った契機は、まさにこの不思議な事例との遭遇です」とあるように、本書の第一の眼目は、あるクライエントが想起した前世の詳細が、史実と高い符合を見せ た、ということにあります。
 「前世療法」自体については、すでに本編の「死後存続証明の新たな展開――臨死体験と前世療法」で、かなり詳しく論じていますのでそちらを参照していた だくことにして、ここでは、本書の第一眼目の紹介と、それに関連して、著者がほのめかしている、新たな展開の可能性について、述べることにします。

前世記憶の真偽

 前世療法は日本でも広く行なわれているようですが、当然のことながら、正統の心理療法と認められておらず(「前世」自体が唯物論に反します。中には「前 世イメージ療法」とか「前世物語療法」と呼び変えようとする「腰砕け」さんもいるようです)、そのため、民間「催眠治療師」などによるものが多く、その全 体像は把握できないようです。またそのような事情から、学会報告や学会誌論文などもほとんどありません。この主題に関連する著書を刊行しているのは、「生 きがい論」の提唱者で経営学者の(つまり実践家でも専門研究者でもない)飯田史彦氏、そして脳外科・心療内科医の経歴を持ち、自ら前世療法を実践している 奥山輝実氏らがいますが、いずれも、前世記憶の真実性や、死後存続の問題に関して、態度保留(個人的には信じているのでしょうが)という立場を取っている と思われます。従って、前世記憶の“真偽”を論じた本は、著者が言うとおり、日本初と言えるでしょう。

 「タエの事例」は、脊柱側彎症を患っている40代の女性が、著者の前世遡行催眠によって、天明3年(1783年)の浅間山大噴火で、「人柱」となって死 んだ少女「タエ」の記憶を甦らせた、というものです。このセッションは、逐語記録されていて、きわめて迫真力のあるものとなっています。
 クライエントの想起によると、「タエ」は、群馬県渋川村(現・渋川市)で、孤児として名主「クロダキチエモン」によって育てられていましたが、同年の浅 間山噴火の際、吾妻川が火砕流によって堰き止められ、直後に大洪水が襲ってくる恐れがあったために、「龍神様へのお供え」として、川の橋に縛りつけられ、 濁流に呑まれて死亡しました。
 これに関連する様々な叙述(中には「タエ」ではなく、「偉大な存在者」と呼ばれる別人格らしきものからの情報も含まれます)が、当人は通常の方法で入手できない情報であり、それらは「約八割」の高率で、史実と符合したとされています。
 特にタエが、安永9年に「13歳」、天明3年に「16歳」と語っているのは(つまり安永10年=天明元年ということ)専門家でも記憶している類のもので はないこと、「地元では馬頭観音を“ばと様”と呼んでいること」はまず通常では知り得ないこと、など、記憶の真実性を傍証する強力な要素があります。
 ただし、「タエ」の実在の証拠、人身御供の伝承・記録などは見出されず、養父の名も姓が違っているということで、「決定的な証拠」は獲得できなかったようです。著者はこう述べています。

《ある程度信憑性のある証拠は数多く得ることはできても、誰もが疑問を持つ余地のない決定的、絶対的証拠というものは、どういうわけか出てこない、という のがこの種の「超常的現象」に付随する性格であるようです。「タエの事例」で言えば、タエを実在するものとして信じたい人には、信じるに足る十分な証拠と 映るでしょうし、信じたくない人には、否定するに十分な曖昧さが残るというわけです。/本事例のタエの実在および死後存続問題についても、最終的にどちら をとるかは、読者それぞれの判断によるしかないと言うほかありません。》

 決定的ではなかったにせよ、このような探究が日本でもなされたということは、非常に意義があるもののように思われます。前世療法では、「治ればOK」 「クライエントの主観でOK」ということになりがちで、それ以上の探究(「なぜ治るのか」も含めた)がなされることはほとんどないのが現状だからです。今 後、実践家たちの報告が増えていくことがあれば、真偽問題や治癒構造をめぐっての研究も生まれてくるでしょう。

中間世セラピー

 もうひとつ、本書には、著者独自の冒険的試みが記されています。
 それは「中間世」での「気づき」の重視と、そこでの「偉大な存在者」との直接対話です。
 前世療法は、基本的には、前世記憶を甦らせ、それによって、「現況の困難の理由」が開示されたり、「生命の不滅」や「生の意義」を主観的に納得させられ たりする、というものでした。しかし、ホイットン、ウィリストンを始め、療法家たちは、次第に「中間世」の問題に注目するようになりました。さらに、マイ ケル・ニュートンに到ると、前世の細々とした記憶よりも、中間世(つまりは霊界ということですが)における「人生の総括」や「次の人生の選択の意味」など に力点が置かれるようになっています(ニュートンに関しては、改めて詳述する予定です)。
 日本でも、奥山輝実氏は中間世での「光(高次の存在)」との対話によって、クライエントが人生の意義を納得するというケースをいくつか挙げています(飯 田史彦・奥山輝実『生きがいの催眠療法』、PHP研究所、2000年)。(ただし、この「高次の存在」について、同書はなんと、「どうやら、『光』の正体 は、『宇宙』そのものであるようです」と述べています。唖然。)
 本書の著者も、中間世での「偉大な存在者」との対話を行なっており、それによってクライエントの心理構成の変化が起こり、治癒がもたらされると述べてい ますが、著者はニュートンと同様、「偉大な存在者」を「一部の宗教思想で提示されているような『指導霊』ないし『守護霊』と呼ばれる存在」と採っているよ うに思われます(留保付きですが)。
 さらに興味深いのは、この「偉大な存在者」がクライエントに「憑依」して、施術者と直接対話するということが試みられていることです。
 これは、すっと読み飛ばしてしまうところですが、実はかなり重大な問題を含んでいると思えます。
 まず、「偉大な存在者」との対話は、クライエントの「記憶」なのか、という問題があります。つまり、クライエントは、かつてある生を生き、そして次の生 を生きたわけですが、その「中間」において「偉大な存在者」と出会っていた、そのやりとりを、クライエントは「思い出している」のか、ということです。
 奥山氏の挙げているセッション記録などを見ても、「その『光』に聞いてみてください、何と言っていますか」とか、「なぜそうなのか、聞いてみてくださ い」とか、現在進行形で、クライエントに質問をうながし、クライエントも、現在進行形で答えを受け取っているように見受けられます。それは、本書のセッ ションでも同様です。
 つまり、この場面は、「記憶の想起」ではなく、クライエントが、「偉大な存在者」と、セッション中に対話をしているということになるわけです。
 さらに、著者のセッションでは、この「偉大な存在者」が、クライエントに「憑依」し、施術者である著者と、クライエントの状況や前世記憶の真偽をめぐって、かなり長時間のやりとりを行なっています。これはどういうことなのでしょうか。
 加えて興味深いことは、この「憑依」の間のやりとりを、クライエントはほとんど記憶していないと報告されていることです。前世を想起している時は、いく ら前世人格に同一化しているように見えても、クライエントの意識は残っており、想起していた間の記憶も保たれています。つまり、「憑依」の間は、クライエ ントの意識は、「偉大な存在者」によって占められていたことになります。
 これら一連の現象に対して、著者は一つの仮説を立てています。

《考えうる一つの仮説としては、前提として、「魂」や「霊」と呼ばれるものの存在を認める立場からの解釈です。この立場に立てば、「魂状態」だと自覚して いる〔中間世の〕クライエントは、深い催眠状態の中で、当人の自覚どおり、肉体とは別個の存在である「魂」として顕現化した状態にある、と解釈することに なります。したがって、筆者は、まさしく当人の「魂」と面接したということになります。また、中間世で出会った「光」ないし「人間的イメージを纏った神的 な存在者」は、一部の宗教思想で提示されているような「指導霊」ないし「守護霊」と呼ばれる存在だと、考えることができるでしょう。そして、クライエント の「魂」は、そこで出会った「指導霊」「守護霊」からの啓示を受けて、症状の改善効果をもたらすような自己・世界解釈に至り、現世を生きる意味を獲得して いった、と考えることができると思われます。》

 これは、スピリチュアリズムから見れば、ごく自然な解釈だと言えるでしょう。そして、それが妥当であれば、前世療法における「中間世」状態とは、クライ エントが「霊界」とコンタクトして、「ガイド」との対話を行なっている状況であるということであり、そして、「ガイド」がクライエントに憑依して施術者と 語るのは、「霊」が「霊媒」を通して会席者と会話をするという「交霊会」と相同の構造となっていると解釈できるのではないでしょうか。(ただし、この際、 「ガイド」から直接もたらされる情報は限定されているようです。奥山氏のケースでは、クライエントへの言及はしても、その子供への言及は拒否する、という やりとりが報告されています。)
 このように考えると、「中間世療法」は、もはや「前世のトラウマやカルマを探り出して云々」といったものではなく、「霊交」によってクライエントの状況を改善させる、まったく新たな方法なのではないかと考えられるわけです。
 さらにこのことは、「霊界とのコンタクト」という、人類がいにしえから求めてきたものが、催眠ということを通じても、可能になるということを語っている のではないでしょうか。少なくとも、自らの「ガイド」とのコンタクトが可能になるのだとすれば、「中間世」催眠は、かなり大きな意義を含んでいると考えら れるのではないでしょうか。

「治癒構造」の解釈

 もう一つ、興味深いのは、「なぜ治るか」という問題です。前世療法に対して、「前世」自体を否定する立場からは、「抑圧したトラウマを前世イメージに仮 託して意識化する」(精神分析的立場)や、「不都合な自己像を前世イメージに仮託することで間接的なものにし、治癒イメージをつくる」(イメージ療法的立 場)、また「人生や世界全体を体系的に意味づける物語を獲得する」(物語療法的立場)などの解釈があります。いずれも「仮託」や「物語」といった概念で、 前世の実在性を回避するのです。しかし、なぜそんな迂回的で複雑な方法をわざわざ取るのかは、説明されません。
 ここで著者は、前世を「想定しうるもの」としつつ、前世療法によって、魂の死後存続および、過去世・現世・未来世という生の連続性への「主観的確信」 や、「中間世での、神的存在者からの啓示ないしメッセージによる、自己の現在を生き抜く意味と自己の使命への気づき」が得られることで、症状が改善するの ではないかと言います。そして、「こうした体験によって、最終的に『超越的視点の獲得』を可能にしていくのが前世療法であり、前世療法の改善効果はそこに 由来すると考えていいのではないでしょうか」と述べています。
 「治癒構造の解明」は、もう少し微細に解明する必要があるように思われますが、ともあれ、ここで言われている「超越的視点」とは、まさしくスピリチュア リズムの提示する霊的真理(霊魂不滅と永遠の成長)の確信に、つながるものでしょう(しかも、前世療法(中間世療法)では、そこに「守護霊ないし指導霊と の対話」という、実体験的要素が加わっているので、その確信はいっそう強いものになるのでしょう)。霊的真理の確信が、心理的症状を改善する、というわけ です。
 このように考えていけば、前世療法、特に中間世療法は、スピリチュアリズムそのものだと言うこともできるかもしれません。そしてそれは、「霊媒による交信」以上に、人々に霊的真理を直接感得させる、新たな方法になるのかもしれません。

 ともあれ、本書は、前世記憶の真偽問題、中間世問題といった重要な主題を問いかけてくれる、貴重な本です。この本を契機に、謎の多い前世療法に対して、一層の探究が進むことを期待したいと思います。

  *『前世療法の探究』=2006年5月、春秋社刊、2100円
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この書評が出てから早くも10年が経っています。

筆者が「謎の多い前世療法に対して、一層の探究が進むことを期待したいと思います」と期待を寄せてくださったにもかかわらず、その後に開発した「SAM前世療法」によって探究を進め、そこで開示されてきた、きわめて深い催眠状態(魂の自覚状態)における「心(意識)の謎」は、ますます深まるばかりです。


2016年2月5日金曜日

SAM催眠学序説 その83

「ラタラジューの事例」を評価していただいた記事の紹介


我田引水のようで少し気が引けますが、応答型真性異言 「ラタラジューの事例」を科学的事実として正当に評価してくださった方のこれまでの記事を4点紹介します。

「その1」は、アンビリ放映後の『スピリチュアリズム・ブログ』の記事です。
「その2」~「その4」はアマゾン書評の記事です。

 記述者それぞれが、「生まれ変わりの科学的研究」に造詣が深く、この研究分野の著作を相当読み込んでおられるように思われます。

前世療法や生まれ変わりについての著作はかなりの数に上ります。
とりわけ、1996年にブライアン・ワイス『前世療法』PHP研究所、が出版されて以後、ワイス式前世療法による前世の記憶が語られた、といった諸著作は、日本でもかなり流行し、刊行され続けています。

ただし、その語られた前世の記憶の真偽を、歴史的事実と照合するなど、時間と労力をかけ、前世の存在可能性についての科学的検証を報告した著作は、私の知る限り日本では皆無です。

したがって、これらワイスをはじめ「前世本・生まれ変わり本」の諸著作は、生まれ変わりの専門的研究者からは「通俗書」としか評価されえず、生まれ変わりの「科学的研究書」としての扱いを受けることはありません。
なぜなら、語られた「前世の有無」について、綿密・慎重な科学的検証がなされておらず、したがって、反証可能性にひらかれた報告になっていないからです。(通俗書としてはそれでいいのですが。)

私としては、これまでに報告された通俗書の内容の二番煎じでは、生まれ変わりの科学的事実としての説得力は無く、わざわざ発表する意味はまったくない、これまでの報告とは一線を画した、反証可能性にひらかれた科学的・実証的内容であってこそ、発表する意味がある、という立場から、アンビリ出演も2度し、出版も2冊してきました。

さらに言えば、物質的基盤だけでこの世界を完全に理解可能だとする唯物論世界観は、実は憶測に過ぎず、非物質的(霊的)なものを基盤とする世界観をも想定せざるを得ないのではないかという主張を、科学的根拠(たった1事例に過ぎませんが)に基づいて示したかったということです。


こうした、私の本意を汲み取っていただけた評価を受けたことをたいへんうれしく思っています。

(注) 引用文のゴチック部分は私の入れたものです。

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その1 「アンビリバボー」放映のラタラジュー「真性異言」の意義


昨日、午後7時57分から、フジテレビ系「奇跡体験!アンビリバボー」で、「前世のネパール語で会話したラタラジューの事例」が放送されました。

 催眠によって、記憶をどんどんさかのぼり、出生以前、そしてさらに前世(とおぼしきもの)へと戻ることがあります。その前世で起こった出来事を思い出すことで、現世の自分の病気や恐怖症などが治ることがあります。
 これが「前世療法」です。
 催眠を受けた人全員が前世にさかのぼれるわけではありません。その割合は施術者(かける人)によってまちまちです。20%という人もいれば、80%という人もいます。現在のところ、はっきりとした検証はされていません。

 一般の前世療法では、病気や恐怖症などが治れば、それでよしということになります。その前世が本当かどうかは問題にしません。クライエント(来談者、患 者)は、多くの場合、「あれは自分の前世だ」と感じるようで、「魂は死なないことを確信した」と言う人もいます。けれども、それ以上、「真実か否か」を突 き止めようとはしません。

 ごく一部の前世療法家は、クライエントが思い出したことが、どれほど歴史的事実と一致するのか、調査しました。そして、「これは歴史的事実で、しかもクライエントが知ることができない事柄だ」と認められるものも、稀にあることがわかりました。

 さて、ここであるクライエントが、催眠によって前世の記憶を甦らせたとします。
 今回の「ラタラジューの事例」で言えば、里沙さんというクライエントが、前世に戻るよう誘導され、ネパールに生まれ、シャハ王朝あるいはラナ家に兵士と して雇われ、自分と妻と子供の名前を言い、村にはヒルが多くいたことなどを話したとします。そしてそれらの事柄が歴史的に充分あり得ることだと明らかに なったとします。
 さらに、里沙さんが、こうした事実をどこでも学ばなかった(学んだ可能性がほぼない)とします。(セラピストで研究者の稲垣勝巳氏は、綿密で精力的な調査によって、「学んだ可能性」を否定しています。)
 そうすると、これはかなり信憑性の高い「前世の記憶」と言えます。

 しかし、これに反論する人がいます。
 「里沙さんは、透視といった超能力で、誰かの心の中にある記憶を読み取ったり、ネパールにある記録を透視したりして、ラタラジューという人物を創り上げたのだ」という反論です。
 これはかなりトンデモナイ反論ですけれども、一部の超能力者は、遠くにある物体の姿を見たり、人の心の状態を読み取ったりすることもあるので、「絶対あ り得ない」とは言えません。里沙さんは超能力などを発揮したことはないのですが、「催眠誘導によってたまたま発揮した」という反論もあり得ます(確かに催 眠状態で透視などの超能力が突然出現することはあります)。

 では、里沙さんが、ラタラジューが使っていたネパール語で、会話を始めたらどうでしょうか。
 会話能力は、透視や読心術では得ることができません。辞書や教科書を読み取ったとしても、それだけで話せるようにはならないわけです。
 つまり「透視などで創作した」という反論は成立しなくなります。
 そして、「前世記憶の信憑性」は非常に高くなるわけです。

 ただし、もう一つの仮説があります。それは「霊が憑依した」という説です。里沙さんは霊媒体質で、以前ネパールに生きたラタラジューという人が霊となっていて、それが突然憑依したのだ、という解釈です。
 これは難しい問題です。断定はできませんが、通常、「霊が憑依する」と、その間、憑依された側の人間の記憶は失われています。何が起こったか覚えていないのです。
 ラタラジューの事例では、里沙さんはネパール語を話している間の記憶を持っています。
 また、ラタラジューと自分の間に、親密感(同一性感覚)を感じていたと証言しています。
 ですから、おそらくこれは憑霊現象ではないと思われます。

 前世の記憶を甦らせ、かつその前世での言葉を話す、という事例はきわめて稀で、世界で5例ほどしか報告されていません。
 なぜこのようなことが起こるのか。それは謎です。
 イアン・スティーヴンソンが調査した「シャラーダの事例」では、インドのウッタラという女性が、突然前世紀に別の場所で生きたシャラーダという女性に人格変化し、学んだことのないベンガル語を話すということが報告されています。(『前世の言葉を話す人々』参照)
 この事例は、
  ・シャラーダ状態では、身のこなしなどの行動パターンが変わり、電話機というものを理解できないなど、ほぼ完全な人格変換が起こっている。
  ・シャラーダが話している間は現世人格は記憶がない。
  ・シャラーダは、自分が死んだことを自覚していない。
 といった理由から、「憑霊」が疑われます。

 ごく稀ですが、霊媒に霊が憑依した際、その霊が生きていた国の言葉で話す(書く)という現象が起こることも報告があります(ブラジルの霊媒ミラベリのケースなど)。
 どうも、一部の霊はそういうことができるようです。
 しかし、ラタラジューの事例では、憑霊現象とはどうしても判断できません。
 あくまで推察ですが、「単なる記憶を思い出す」のではなく、「前世の人格そのものが強力に前面に出てくる」場合、こういうことが起こりうるのかもしれません。
 そういう意味でも、今回の事例は、非常に貴重なものだと思います。そしてそれが映像になりテレビという形で広く知られることは、大いに意義があるものだと思います。
 
 なお、今回の事例の詳しい内容については、mixi の稲垣先生のコミュ「前世療法の探究」
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=2399316
 をご参照ください。

 もちろん、今回の事例だけで、「人間は生まれ変わる」ということが、誰もが認める形で証明されたわけではありません(何が立証されたら証明になるのかに 関して合意がないので)。「死後存続」(人間の人格の主要な部分は死の後も残る)を認めない人(唯物論者)からは、いろいろと反論もあると思います。「や らせだ!」「あるはずがない!」といった感情的な反論は別として、もし蓋然性の高い別の解釈が出されるのであれば、きちんと検討しなければならないでしょ う。

付記:この事例のクライエントである里沙さんは、かなり悲痛な前世を思い出したためにつらい思いをしたそうですが、それにもかかわらず、またご自身の重い 病気をいとわず、懐疑的な調査方法にもめげず、研究に協力されています。お金にも名声にも関係なく、むしろ白眼視される危険性さえあるのに、真実の探求に 奉仕される精神は、実に尊いものだと思います。

      *      *      *

 スピリチュアリズムの立場から、生まれ変わりをめぐるよくある疑問に、Q&A形式で。

 「生まれ変わりは本当にあるの?」
 「ある」と考えてよいと思います。複数の「霊からの通信」ははっきりあると言っていますし、イアン・スティーヴンソンの研究、そしてワイス、ホイット ン、ウィリストン、ニュートンといった前世療法家の報告を見ると、筆者は「ある」としか思えません(ただ、一部の「霊からの通信」では、「生まれ変わりの 問題は非常に複雑なので、人間の知性では理解できない」とも言われているので、断定を留保する必要はあるかもしれません)。

 「誰もが生まれ変わってきているの?」
 これはわかりません。「今回が初めて」という人がいるかもしれません(ニュートンの報告では、どうもいるようです)。

 「生まれ変わりは何回もするの?」
 これも断定的なことは言えません。里沙さんのケースでは、「今回が3回目」と言われています。前世療法の事例では、数回、十数回という証言もあります。 中には「100回以上」というようなことを主張する報告もありますが、これはちょっと変(通常の生まれ変わりとは違う見方をしている?)だと思われます。

 「何回か生まれ変わっている人は、誰もが前世の記憶を持っているの?」
 おそらく無意識の中に、前世の記憶はあるでしょう。そして、好き嫌いとか、やりたいこと、生き方の特色といったことに、かなり影響を及ぼしていると思わ れます。水が恐いという人が、前世記憶を甦らせたところ、前世で水死しており、それを知ってから恐怖症がなくなったという事例もあります。特定の国、文 化、芸術などへの愛着も、前世に関係している場合があるようです。

 「なぜ普通は前世の記憶を思い出せないの?」
 一部の霊からのメッセージは、「前世の記憶がないほうが、魂の成長にはよい」と言っています。人間の意識はまだもろくて弱いので、前世のつらい出来事を思い出すとバランスが崩れたり、前世のネガティブな思いや感情に引きずられてしまうから、ということのようです。

 「思い出せないなら、前世に何の意味があるの?」
 前世自体に何かの意味があるのではなく、人間の魂は、何度も地上に生まれ変わって成長をしていく、その当然の結果として、前世があり現世がある、という ことになります。前世でやり残したこと、魂としてまだ学ぶべきことがあれば、魂は地上に生まれ変わる。そしてその「課題」は、意識できなくとも、魂(無意 識)は知っている、ということです。

 「前世の記憶を思い出すことはよいことなの、悪いことなの?」
 通常、しいて前世の記憶を思い出すことは必要ないでしょう。興味本位で探って、悲惨な過去を思い出し、心のバランスが崩れるといった危険性もあるかもし れません。ただ、何らかの不都合、たとえば心身症とか恐怖症とか、どうにもならない苦境とかが生じた場合、その打開のために前世記憶を思い出すことが役立 つことはあるようですし、それはやむを得ないものだと思われます。真摯な霊的探究として前世探究を行なう人もいるようですが、それはまあ、自己責任という ことで(ちなみに、催眠でない方法もあります)。

 「生まれ変わりたくないから生まれ変わらないということはできるの?」
 魂は、霊的成長の最善の方法として、この地上に生まれてくることを「自ら選んで」いると言われています。
 そして、魂が充分に成長すれば、もはや地上の生で学ぶ必要がなくなり、この世には生まれ変わらなくなるようです。ただし、どうすれば「卒業」になるかは、はっきりしていません。
 (ちなみに、ブッダの宗教的探究は「どうやったらこの苦しい地上に生まれ変わらなくなれるか」というものだったと思われます。このブログの【仏教って何だろう】を参照)。
 今の意識では「生まれ変わりたくない」と思っていても、霊界に行っていろいろと回顧・反省し、その上で「また生まれ変わって学ぶ」ことを納得ずくで選ぶ魂も多いようです。
 「生まれ変わりたくないのなら、ちゃんとこの人生で学ぶべきことを学んでいきましょうね」というところでしょうか。

 なお、「生まれ変わり」や「死後存続」があるからと言って、「リセット」を望んで自殺することは大きな間違いです。自暴自棄、悲観、恨みなどを抱えて自殺すると、死後も長くその思いに囚われて苦しむことが多いとされています。

      *      *      *

 再録になりますが、「生まれ変わり」問題をめぐる良質と思われる図書を挙げておきます。★は特にお薦めの本です。
★イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち』日本教文社、1990年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世の言葉を語る人々』春秋社、1996年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『生まれ変わりの刻印』春秋社、1998年
イアン・スティーヴンソン/笠原敏雄訳『前世を記憶する子供たち2』日本教文社、2005年
★グレン・ウィリストン+ジュディス・ジョンストン/飯田史彦訳『生きる意味の探究』徳間書店、1999年(編抄訳)
ジョエル・L・ホイットン他/片桐すみ子訳『輪廻転生――驚くべき現代の神話』人文書院、1989年
ブライアン・L・ワイス/山川紘矢他訳『前世療法』PHP文庫、1996年
ブライアン・L・ワイス/山川紘矢他訳『前世療法2』PHP文庫、1997年
★マイケル・ニュートン/澤西康史訳『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』VOICE、2000年
マイケル・ニュートン/三山一訳『死後の世界を知ると、人生は深く癒される』VOICE、2001年
★稲垣勝巳著『前世療法の探究』春秋社、2006年
★アラン・カーデック(カルデック)/桑原啓善訳『霊の書』(上下)潮文社、1986~7年
★グレース・クック/桑原啓善訳『ホワイト・イーグル霊言集』潮文社、1986年
ジェラルディーン・カミンズ/梅原伸太郎訳『不滅への道』春秋社、2000年


その2 スピリチュアルとは一線を画す科学的な特殊事例の検討


まず最初に、この著書に対して批判して悪くコメントをしている人は、全く著書を読んでおらず、内容の「科学的な事実」を無視し、揚げ足をとった挙句、更に捏造して大ウソの書評をして評価を下げようとしてるだけなので信じる必要はありません。

それは実際に私自身が購入してみて感じました。

この著書は、確実に安易なスピリチュアルな本とは一線を画します。

この著書は、世界でも過去4例ほどしかない極めて貴重な「真性異言(しんせいいげん)」の事例に対する科学的な事例検討です。

研究メンバーは、
日本のメンタルヘルス研究所 所長の稲垣勝巳氏(※1)
(※1)元公立小中学校教頭・臨床催眠研究者・成瀬悟策医博の推挙の学校心理士・日本教育催眠学会理事
中部大学 国際関係学部教授 大門正幸先生、
中部大学 国際関係学部准教授 岡本聡先生、
さかえクリニック院長 医学博士 末武信宏医師、
日本法医学鑑定センターの荒砂正名氏(※2)(あらすな・まさな)も協力しています。
(※2)前大阪府警科学捜査研究所長で、36年間に8000人を超える鑑定経験を持つ日本有数のポリグラフ検査に精通した専門家。
です。
更に、これは日本で故・河合隼雄氏に並ぶ、成瀬悟策医博の系列で大学・医師チームで研究が行われ、正統にアカデミックに論文発表されました。

「真性異言」とは学んだことのない外国語もしくは意味不明の複雑な言語を操ることができる超自然的な言語知識、およびその現象のことです。

著書内では、真性異言が退行催眠中に表出し、その世界初の映像と音声収録に成功した経緯と、最新の真性異言の事例であるネパール人のラタラジューを中心に検証と考察、及び逐語録まで詳細に解説してあります。

2010年8月5日、映像はフジテレビのアンビリバボーでゴールデンタイムに公開されました。

この著書が優れているのは、被験者に対して「虚偽記憶かどうか」の出来る限りの科学的検証も行われていることです。
これは前世療法で著名なエール大学医学部のブライアン・ワイス医学博士・精神科医でも検証し得なかったことです。

虚偽記憶とは、過去にどこかその情報を得たりしていないかということです。
よく前世療法(前世イメージ療法とも)の中で、退行催眠で見えるものは虚偽記憶(記憶の再合成)の可能性があると言われています。
リモートビューイング(超ESP)仮説でも、退行催眠中に見える虚偽記憶(本物ではない記憶)の説明はできます。退行催眠中に、透視能力を発揮してその情報を持ってきたとも言われます。

しかし、今回発見させたのは【会話】。つまり【技術】です。
退行催眠中に【技術】という「虚偽記憶では証明不可能な反例」が出たという事例です。

「記憶」は過去の経験(テレビや雑誌など)で合成され、虚偽記憶となる可能性を秘めているとしても、【言語(しかも会話)】は、発達上の反復による学習により習得できる”技術”のため、記憶や透視では証明できません。
よって虚偽記憶も超ESP仮説も反証できるのです。

(例えば、ネパール語を学んでいない人に、道端でいきなりネパール語でしゃべってくださいと言われても無理ですし、やったとしても偶然にも当たりませんし、習ってない人にバイオリンを弾いてくださいも無理です。)

更にその会話は「偶然、ネパール語に聞こえた。」という類のモノではなく、しっかりと応答型に会話し、言語学者・大門教授の分析により
【ネパール語で70パーセントも会話が成立していることが立証されています】。

それだけでなく
【一人称や三人称の変化、助動詞や尊敬語や、独自の数字まで正しい発音で会話をしていました】。

情 報を得ていなかったこと、ネパールと接触がなかったこと等は、被験者の同意の上、過去の経歴の中で関わった人物、在住した市町村の戸籍、旅行先、テレビや インターネットやラジオの放送履歴などに到るまで徹底的に調べ上げ、更にポリグラフ検査まで行って、確実に「接触がなかった」と科学検証されました。

基本的に科学では「全称命題」に対して、一つでも反証できるものがあれば、それは「特称命題」と呼ばれています。
例えば、世界中にいるほぼ全てのカラスを観察して「カラスはみんな黒」と全称命題を立てても、1匹でも茶色や白のカラスがいれば「特称命題」ということで、その命題は覆(くつがえ)るわけです。
科学実験が「不完全帰納法」であることは、日本人だけ知らないだけで、世界の常識です。
(数学のように誰がどこでやっても絶対答えが一つ出るのは完全帰納法[数学的帰納法]。これが神学や論理学や哲学に繋がります。対して、物理学や化学や生物学や心理学や医学などの自然科学や社会科学は、統計的で反例があれば覆るので不完全帰納法と言います。)

真性異言という「特称命題」の事例は、その特称の名のとおり、通常の全称命題(実験的再現性が高いもの)を覆すものなので、イアン・スティーブンソンなどの極少数の先行研究の事例を元に仮説を検証しなければなりません。

よって、そのイアンの「死後存続(生まれ変わり)」仮説をそのまま採用すれば、率直に特殊命題として「生まれ変わりが証明された」と言えるわけです。言葉の通りだと思います。現時点ではそうとしか表現のしようがありません。

その科学性は、先行研究の仮説の検討と、しっかりとした引用文献から見い出される論理的整合性に明確に依拠しています。

もし、この事実に反論しようとするならば、

1、ネパール語を学んでいないことの確実な検証済みの被験者に、ネパール語で会話実験して、被験者の里沙さん(ラタラジュー)レベルの会話が成立するか実験する。そこで会話が成立することの立証。
これで初めて、里沙さんはネパール語を学んでいないけれども話すことができた、という反論を認められます。
(ネパール語で会話ができるとする検証基準は、前世人格ラタラジューの会話レベルと同程度であるネパール語の、25~30の単語と、ネパール語の文法に則った主述の明確な会話がわずかでもできるということです。)

2、里沙さんがネパール語を学んでいない科学的検証方法として、生育歴の詳細な聞き込み調査、ポリグラフ検査による調査、本人およびご主人の証言書署名のほかに、科学的検証方法があるのであれば、その方法論の説明。

3、 生まれ変わり研究の第一人者であるイアン・スティーヴンソンの研究方法を忠実に追試するという方法論を採用されているので、「ラタラジューの事例」を生ま れ変わりの科学的証明ではないと否定するのなら、スティーヴンソンの3つの事例も全否定することになるので、その科学的反証をきちんとすること。

4、生まれ変わりが絶対にないと強弁するのなら、生まれ変わりが絶対ありえないという科学的証明をきちんとすること。
そもそも、まだ脳が意識を生み出している科学的証明はまだできていない。
意識を生み出す脳細胞を発見できると脳科学者が必死で探していますが見つかっていません。脳がすべて、脳が消滅すればすべて無に帰するというのは、科学的裏付けのない単なる憶測、思い込みに過ぎません。もし、意識を生み出す脳細胞が発見されたなら、私は生まれ変わりがあるという事実の誤りを認められます。脳細胞の消滅と同時に意識(生前の記憶)も消滅するわけで、生前の意識(記憶)が来世に保持され持ち越されるはずがないということになるからです。

とにかく1の実験をして検証をし、ネパール語を学習していなくても、里沙さん程度にネパール語会話ができたという立証(反証)がないところでは反論は根拠を欠いた単なる感情的駄弁です。
否定論者は、これらのことが「できる」と断定的に言ってるので、「じゃあお前がネパール語しゃべってみろ」「全くネパール語のできない人が、ネパール人に話 しかけられて20~30のネパール語単語を用い、ネパール語文法に則った会話が少しでもできそうでしょうか?」「しかも、タマン語訛りのあるネパール語発音ができると思いますか?」と返したくなります。

更に、
『「脳が心を作り出す」や「心が脳を作り出す」の立場は科学的に解決されたんですか?』
『ニュートラルネットの出力者の不在問題は解決されたんですか?』
という今だに解決されていない疑問に対する解決もされなくてはなりません。

既存科学(唯物論者)傾向な人は、このような特称事例を見受けると、受け入れがたい科学的な事実を目の当たりにして拒否反応を示す【心理的抵抗】が起こってしまい、自分の傲慢な感情を科学の唯物論だけで担保して押し通すような神経症的傾向が出てしまうかも知れません。

そもそも「スピリチュアル vs 科学」という神経症的な二分法思考で、「既存の科学=正義」で「未解明科学、それ以外は悪」であるという認識自体、間違っていると思います。

例えば、新しい病原菌が見つかった場合、それを「過去の既存の科学の事例にないから悪。そんなものは存在しない。」と言うのは、それこそ現実の事実を無視して思考停止した”非科学的な態度”です。

客観的に観察される事象に対して、先行研究を駆使して、より合理的に、かつ善悪などの主観を除いた「事実」に近づくように探求するのが本来の「科学」です

「科学が正義で、それ以外は悪なので抹消すべきだ」という考えは、
中 国共産党の”科学崇拝”によって、霊能者や占い師や風水師や、果てには少林寺拳法などの武道精神にいたるまで、「目に見えない世界を信じる人」を1億人近 く(歴史上最多の)大虐殺した文化大革命・天安門事件や、今も続くチベット仏教徒やウイグルイスラム教徒への迫害。ソ連の大粛清で歴史上最多の大虐殺。
日本でも、過激派左翼の共産主義(唯物論)→学生運動→集団リンチ・よど号強奪や浅間山荘事件(革マル派・日本赤軍)→その後、彼らが拠り所を求めて作ったオウム真理教…
このすでに危ないと言われ、30年前には崩壊して終わった流れと同じです。
(今は、この時代を生きた人が教育者などになっているので、俗に言う理科系にいけばいくほど、リベラルで唯物論的になるのは嘆かわしいことですが…)

「本来の純粋な科学的な視点」で、寛容に懐疑的で中立的な観点を持てる人には、この著書は適していると思います。

私は、この特殊事例が突破口となり、今後「死後存続仮説を支持する事例がある」「未習得言語を話す事例がある」という反証から、新たな科学の発展にも貢献すると感じます。

近い未来、これを元に「未習得言語を話すようになれる技術」などが開発されていく契機にもなるはずです。
ノーム・チョムスキーの言語生得説の生成文法(とりわけ中心の普遍文法)の認知言語学・情報(数学)理論、同じくこの系譜の脳科学(人工知能)の最新研究である心の内部関数(機能:ファンクショナル)として必ず注目されます。

仮に、真性異言に反証するような何かが分かったとしても、「ニューラルネットの出力者不在の問題」を脳科学は解決しなければ、「脳」と「心」の関係の根本問題は解決されないのです。
(でも今でさえ「心が脳(モノ=認識の世界)を作り出す」という後者が有力です。これ以降は量子力学の世界で研究されていくと思います。)

そして、この真性異言という事例の特殊命題は、今世紀以降、未来永劫、残り続けると思います。

その3 大変冷静で実証的な本です


大変冷静で、実証的な本です。
「生まれ変わり」をできる限り客観的に証明することを志し、工夫と努力を重ねて状況証拠を挙げていっておられます。

元々、この本の筆者は催眠療法を実践するも、「前世療法」に懐疑的な、むしろ嫌悪感を覚えていたような方であったことも興味深いところです。
「前世療法」のブライアン・L・ワイスや、「輪廻転生」のジョエル・ホイットンなどの流れより、「前世を記憶する子どもたち」のイアン・スティーブンソンのように、できる限り実証的に検証することにより重点を置く、という点で、かなりこれまでの「前世探求・療法本」と一線を画するような内容となっています。
「応答型真性異言」検証というアプローチが、この本での生まれ変わり証明方法の白眉ですが、
複数研究者チーム体制で、録音及び録画している環境下で、ネイティブネパール人の方との間で、被験者本人が知り得ない(使い得ない)と幾重にも証明されるネパール語を使って、たどたどしいながらも会話が進んでいく場面は、読んでいて、静かな興奮と感動を覚えました。

「生まれ変わり」の実証に対して、筆者はくどいほど、様々な角度からの反論を予測して、それらに対しての考察及び、反駁の証拠・論拠を挙げており、
恐らく、これらを読んでも、「生まれ変わりは非科学的で認めたくない」と思えば、頑迷に認めない方もおられるのでしょうが、そうでもなければ、一定程度「生まれ変わり」という事象に対して否定的見解を持っている方でも、この本に綴られている一つ一つの検証を読み込み、虚心坦懐、かつ論理的に検討するならば、「生まれ変わりというのはありそうだ。死によって無に帰するわけではないようだ」という結論(予測)に至るのではないか、と思われます。

ともあれ、これまでの多くの前世療法などの本とは一線を画する、生まれ変わりの事実をできる限り実証的に客観的証拠を追求しながら明らかにしようとした良著であると、私には感じられます。
手元に置いて良く吟味し、検証する価値のある本です。

これまで、主要な生まれ変わりに関する書物を読んできた身として、
このように実証的な、特に「真性応答型異言」というアプローチを持って世に問うた著者の努力にお礼を申し上げたい思いがわきます。
また、日本でこのような本が出たことを、誇らしく思います。



この書を偏った考えで批判されているレビューを読みましたが、批判的レビューを記載された方はまずこの書をしっかり読んでいないことが明確です。
この書に紹介されている研究チームは少なくとも科学者であり 客観的、普遍的、再現性を重視した科学的アプローチを試みられています。 現在のスピリチャルのアカデミックな考え方として 真性異言は魂の存在の根拠になりうると考えられています。
魂の存在や前世の存在を直接 科学的に実証できることは極めて困難でこれまでも残念ながら証明された事例はありません。
今回のこの書でも記載してあるように、真性異言の映像が医療機関内で、医師や科学者、大学教授立会いの下、厳粛に実験セッションが行われ捉えられたということが評価されてもよいかと思います。

そのセッションでの映像や録音された言語を 専門の言語学者が自然科学的に解析しアプローチすることが科学でなくて何でしょうか?
この書を批判するレビュアーはまず、ご自身が科学者でもなく科学的観点でのアプローチの手法すらご存じないようです。
批判は適切に行われるべきであり偏った自己主張は良書を駆逐してしまいます。
考えの相異ではなく、少し無理があるレビューも存在しうることを読者の皆さんは認識する必要があります。
科学者である私もこの書を推薦します。
少なくともこれまでのスピリチャルの書とは全く異なる実証主義に基づいた探究された 良書であると考えます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用終わり

出版不況の現状の中で、私のような、出版社と一切コネのない、医師とか大学教授などの公的肩書きのない、一介の催眠臨床実践者の探究した「持ち込み原稿」を、出版していただくことはきわめて困難です。
たいていは、損害保険のような「著者引き取り分」が設定され、最初に著者が発行部数の半数分を買い取る条件で出版してもらう、というのが出版業界の通例です。

「著者引き取り」条件なしで出版を引き受け、売れ筋とは評価できそうにない地味な拙著を世に出していただいた、「春秋社」編集者、「ナチュラルスピリット社」社長、両氏の使命感と恩恵には、この場を借りてあらためてあつくお礼申し上げたいと思います。

ちなみに、拙著『生まれ変わりが科学的に証明された!』で提示したような、生まれ変わりの具体的証拠にほとんど反論の余地がない、と思われる内容の本は、多くの読者からは嫌われ、売れない傾向が強い、という指摘を専門的研究者から受けています。
生まれ変わりを認めざるを得ない、というところまで証拠が示され、選択の余地のないところに追い詰められると、多くの読者には「心理的抵抗」が生じ、感情的反感によって嫌われるか、無視されるのだそうです。
嫌われようが無視されようが、生まれ変わりを濃厚に示す事例に遭遇したからには、その事実をきちんと活字にして後世に残し、再検証できるようにしておくことが責務であろう、というのが私の考えです。

なお、2006年、2010年の2度にわたって、フジTV番組『アンビリバボー』で放映されたのは、出版できた拙著が契機となって放映依頼があり、けっして私自身が番組に売り込んだわけではありません。
「生まれ変わり」という同じ番組テーマに、「タエの事例」、「ラタラジューの事例」の両事例を高く評価していただき、2度も放映していただいたアンビリの番組ディレクター氏はじめ制作スタッフのみなさんにも、お礼申し上げねばなりません。

さて、生まれ変わりの科学的事実を主張する応答型真性異言「ラタラジューの事例」は、発表以来6年間、唯物論者や霊能者、懐疑主義者から放たれてきた攻撃の矢を跳ね返し、「鉄壁の砦」に立て籠もって孤軍奮闘(スティーヴンソンの3つの事例もありますが)を続けています。

これまでに、拙著の検証記述と、その裏付けとなっているyou-tubu公開の「ラタラジューの事例」の証拠映像に正対し、丁寧に検討し、具体的反証を挙げ、誠実に、冷静に、正当な反論をしてきた論者は現れておりません。
こうした手間のかかる反証を挙げる検証作業をせず、反証可能性から目を背け、実証の裏付けの無い、もっともらしい空疎な仮説を持ち出して、筋違いの反論を並べるだけの脆弱なものばかりです(「SAM催眠学序説 その80」を参照)。

私がきちんと証拠を示し、それに基づいて生まれ変わりを主張しているのですから、私の主張している生まれ変わりを否定したい人は、まずは私が提示している諸証拠の反証を具体的に挙げることが求められています。
私の提示している諸証拠のどこそこがおかしい、だからこれは生まれ変わりの証拠ではない、と具体的に反証を挙げて否定すべきです。
このようにして、生まれ変わり否定の「立証責任」を果たすことが、否定する側には求められていると考えるのが筋というものでしょう。
この当然すべきことを理解できていない反論のいかに多いことか。

生まれ変わりを主張する「ラタラジューの事例」が、反証可能性にひらかれているにもかかわらず、反証を挙げて否定できないとすれば、この事実は、すくなくとも現時点において、生まれ変わりが科学的事実として認められていることを意味します。

 したがって、「ラタラジューの事例」は、物質的基盤だけでこの世界を完全に理解可能だとする唯物論世界観の堤防に、すくなくとも、唯物論世界観だけがすべてで絶対的なものではないぞ、という「アリの一穴」を穿ち続けていると自負しています。