2016年7月29日金曜日

SAM催眠学序説 その95

SAM催眠学の「未浄化霊」についての考察


SAM催眠学では、「霊魂仮説」を認める立場を明確に表明しています。

そもそも、私あて霊信の告げた内容が、SAM催眠学の諸仮説の根本基盤ですから、その霊信を送信してきた高級霊を名乗る「通信霊」を認めざるをえないことは論理的必然です。

SAM催眠学では、「霊とは、肉体を持たない死後存続する意識体」、「魂とは、肉体という器に宿った霊を呼び変えたもの」、という「霊」と「魂」の概念の明確な区別をしています。

したがって、魂は肉体という器を無くした時には霊にもどるわけで、香典袋の表書きに「御霊前」と 

書くことは理に適っています。

さて、私あて第12霊信(SAM催眠学序説 その59で公開) で、私の守護霊団の一員を名乗る霊は「未浄化霊」について次のように告げています。(注:「未成仏霊」と「未浄化霊」は同義語)

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この世に残る「未成仏霊」のような存在は、残留思念の集合体である。 

だが、それらは意志を持つようにとらえられる。 

よって、魂と判断されがちだがそれらは魂とは異なるものである。

それらの持つ意志は意志ではない。

なぜ、それらが意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。

それを残すのは、その魂ではない。

それらを管理するのは神である。

それらは計画の一部である。

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。

その詳細への説明は与えるものではない。

あなた方は、なぜそのような仕組みになっているのか答えを待つのではなく、自らが探究して得るべきなのだ。                                                  
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「未浄化霊」とは、いわゆる魂(霊)ではなく、「残留思念の集合体」である、というとらえ方は初耳でしたし、このことについてはしばらくの間、探究することを怠ってきました。                なぜなら、SAM前世療法のセッションでたまたま顕現化する未浄化霊は、1個の人格を持つ意識体として人間的対話が可能だからです。                                    「残留思念の集合体」というとらえ方のほうが不自然だと思われたからです。

その一つの例示として、SAM催眠学前世療法の最終過程「魂遡行催眠」のセッション中に顕現化した未浄化霊との対話事例を提示してみます。


クライアントは30代の女性であり、「魂遡行催眠」の過程で、憑依していたとおぼしき未浄化霊が、唐突に「セノーテ、セノーテ」と発話しはじめました。

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: セノーテってなんですか? 

: 泉、泉。

: セノーテとはどこの言葉ですか。

: マヤ、マヤ。

: あなたはマヤの時代の人なんですね。それで、あなたは迷っている霊ですね。

: うん。そう、そう。

: マヤは日本から遠く離れています。あなたは、苦しくて、それを分かってほしいから、この者に憑依したのですか? そのために、マヤから日本までやってきたのですか?

: ちがう。この人が来た。

: この者が、あなたのいたマヤのセノーテにやってきた。それであなたが憑依して、そのまま日本に来てしまった、そういうことですか。

: うん。そう、そう。

: あなたは何歳で命を落としたの? 命を落とした場所がセノーテなの?

: 3歳の女の子。セノーテへお母さんが投げ込んだので死んでしまったの。

: お母さんがあなたを殺したわけですね。なぜそんな惨いことをお母さんがしたの?

: 神様への生け贄だって。

注: ここでまたクライアントは激しくイヤイヤをしながら、激しく泣き出しました。それがすすり泣きに変わるまで待って、対話を続けました。 

: そうやって生け贄にされて殺されたから迷っているのですね。でもね、この者にくっついていても、あなたはいくべき世界にいつまでたってもいけませんよ。あなたのいくべきところは光の世界です。そこへいけば、お母さんと会えますよ。あなたを守っておいでになる神様とも会えますよ。

: いやだ。光の世界はいやだ。お母さんは大嫌い、私をセノーテに投げ込んだ。会いたくなんかない。神様はもっと嫌い。私を生け贄にした。

:  お母さんがね、喜んであなたを生け贄にするはずがないでしょう。ほんとうは悲しくてたまらなかったのに、マヤの掟で泣く泣くあなたを生け贄にしたのですよ。そうして、幼子のあなたを生け贄に求めたというマヤの神様はまやかしです。そんなことを求める神様なんているはずがありません。悲しいことですが、マ ヤの時代の迷信です。

: でも、お母さんは、神様の求めで私をセノーテに投げこんだ。お母さんには絶対会いたくない。いやだ、いやだ。お母さんのいるところへなんか行きたくない。この人のところがいい。

:  じゃあね。私の言っていることがほんとうかどうか、ためしてみませんか。きっと、あなたが来るのを待っているお母さんが心配をして、お迎えに来てくれるはずですよ。お母さんがやさしく迎えに来ないことが分かったら、光の世界に行かなくていいのです。ためしてみましょうか。いいです ね。浄霊っていう儀式 をしましょう。きっとお母さんがお迎えにきてくれますよ。

霊: でも、いやだ。お母さんは嫌い。私を殺した。光の世界には行きたくない。
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このような対話を繰り返し、マヤの女の子が、浄霊に応じることを納得してくれるまで待ちました。
30分近く説得し、浄霊してよいという了解を得たので、浄霊をはじめました。
浄霊の儀式が終わったところで、お母さんが迎えに来ていますか、と尋ねると、うん、とうれしそうに返事が返ってきました。こうして、浄霊作業は終了しました。


ちなみに、このクライアントが、いったいどこで、この子どもの未浄化霊に憑依されたのか覚醒後に確認したところ、3ヶ月ほど前の旅行でマヤ遺跡のチツェンイツァのセノーテを訪問していたことが確認できました。

ここのセノーテでは、実際に生け贄を投げ込んで神への供物とすることがおこなわれていたとされています。

このクライアントは、おそらく旅行先のここで憑依されたものと推測できます。

さて、ここで私と対話した未浄化霊である3歳の女の子は「残留思念の集合体」なのでしょうか?

だとすれば、「残留思念の集合体」は、あたかも一個の人格として振る舞っていることが明らかです。

このことについては、「SAM催眠学序説その82」において次のような見解を示しておきました。

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通信霊の告げている、未成仏霊は残留思念の集合体である、という説を採用すると、インナーチャイルド、多重人格にあらわれる副人格、生き霊といった 現象も、「強烈な思念の集合体であり、それらは意志を持つ人格のように振る舞う」という仮説が成り立つのではないか、というのがここでのテーマです。

なぜなら、SAM前世療法のセッションにおいて、たしかに未浄化霊を名乗る霊的存在が顕現化する意識現象があらわれ、「残留思念の集合体」であるにもかかわらず、あたかも意志を持った一個の人格として振る舞うからです。

このことをさらに考察しますと、「憎悪・悲哀・嫉妬などの強烈な思念」、つまり「強烈な負の意識」が凝縮された集合体になると、それが一個の人格的存在を創出することがある、という仮説が成り立つと思われるのです。
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つまり、「インナーチャイルド」・「多重人格」・「生き霊」と呼ばれる存在は、生者の強い思念が凝縮して、一個の人格的存在として振る舞っているわけですから、死者のこの世に残した強い「残留思念」も、一個の独立的な人格的存在として振る舞っても不思議ではないということです。

そして、顕現化した未浄化霊が、本当に「残留思念の集合体」であるのかどうか、は当の未浄化霊に尋ねてみるしかない、というのが私のとった確認方法です。

その結果、尋ねた十数事例のすべての未浄化霊が、自分はいわゆる霊ではなく「残留思念の集合体である」と答えています。
それでは、本体である霊(死者の魂)はどこに存在しているかを尋ねると、どうやら「残留思念の集合体」が浄化されて上がってくるのを霊界で待っているとの回答でした。

本体の霊には、本体の霊と分離したまま地上に残してしまった「残留思念」が浄化され、本体の霊と統合され、霊として十全な状態になることが求められているようです。
どうやら、そのような十全な霊となるように統合がなされるまでは、霊界からの次の生まれ変わり(転生)が許可されないのではないかと思われます。

 そうした消息を霊信では次のように告げていると思われます。
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なぜ、それら(注:残留思念の集合体)が意志を持つものだととらえられるのか、そして、魂が別の道をたどりながらそのような意志を残すのか。・・・(中略)

転生し旅を続けるものに対する課題として必要なものである。(第12霊信)
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「残留思念の集合体が意志を持つものだととらえられる」理由は、インナーチャイルド、多重人格、生き霊などの事例からすでに明らかと言ってよいでしょう。

「魂(霊)が別の道をたどる」ということは、残留思念を地上に残し、本体から分離したままの十全ではない霊は転生が足止めされ、そうした転生を許可されない霊たちの居場所が、霊界のどこかに用意されていることを意味しているのかもしれません。

また、残留思念を地上に残したばかりに、願っても転生が許可されず、霊として成長進化する機会を奪われていることへの後悔や悲しみなどの苦悩や反省が、「転生し旅を続けるものに対する課題」ということかもしれません。

こうして、われわれが未浄化霊と呼んできた霊的存在は、どうやら「霊」ではなく「残留思念の集合体」であると判断してもよいようです。

以下は、「残留思念の集合体」であることを認めたうえで、それを従来どおり 「未浄化霊」と呼んで記述していきます。

しかし、私は残念なことに、未浄化霊の生前の身元の検証に完全に成功したことがありません。
未浄化霊の語った生前の身元が実証できるあと一歩まで肉薄した事例は2例ほどあります。

したがって、未浄化霊の存在の有無は判断留保という前提において、未浄化霊とおぼしき存在に憑依されている複数のクライアントの「意識現象の事実」を累積した結果としての見解をこれまで述べてきました。

そして、クライアントに憑依している未浄化霊の語りが、客観的事実であるのか虚構であるのかは、検証して確認するほかありません。

ただし、検証の結果、生前の身元が客観的事実であると確認できたとしても、厳密な研究者からは、クライアントが超ESPによってそうした身元の情報を入手して語ったのだ、という疑惑が提出されるかもしれません。

未浄化霊と対話した私の実感としては、例示したマヤの女の子のような霊的存在の生前の身元が確認できないからといって、その実在を完全否定できないと思われます。

もちろん、クライアントの妄想の産物であるとか、役割演技とかの説明は可能でしょうが、なぜそのような妄想を語ったり役割演技をクライアントがする必要があるのか、必然性も利得もないからです。
ちなみに、統合失調症などの精神疾患は、このクライアントにはまったく認められませんでした。


さて、さらに、未浄化霊に憑依されていたとおぼしき諸クライアントの告げた「意識現象の事実」を、それを告げた未浄化霊の実在は判断留保という前提において、未浄化霊との対話で確認してきたことを取り上げてみたいと思います。


未浄化霊は、何を求めて憑依するのか、どういう人を選んで憑依するのか、どこに憑依するのか、という問題です。
また、未浄化霊に憑依されやすい人は、どのようにしてそれを防ぐことができるのか、という問題です。

未浄化霊の求めていることは、自分のように苦しんでさまよっている霊への理解と共感だということです。
要するに、さまよっている霊の心情を分かってくれそうな人を選ぶといいます。
つまり、未浄化霊に対して、意識的にも、無意識的にも、受容的態度を持つ人を選ぶということです。
多くは霊的感性の豊かな人が、そうした霊への受容的態度を持っているようです。

それでは未浄化霊は何をもって、その人が霊への受容的態度を持っていることを知るのでしょうか。

未浄化霊の語るところによれば 、その選択の指標はオーラだと言います。

SAM催眠学では、霊体に意識・潜在意識が宿っている、という「霊体仮説」を設けています。
その霊体の色がオーラです。

したがって、未浄化霊に、霊体に宿っている意識内容を読み解く能力があるとすれば、その霊体に宿っているその人の意識・潜在意識に、霊への受容的態度があるのかないのかが判断できるということになり、実際にそのようにして受容してくれそうな人に憑依すると言います。

逆に言えば、未浄化霊に対して強い拒否的意志を固めていれば、その拒否の意識は霊体に反映し宿っているわけであり、それを察知した未浄化霊は、憑依したところで理解も共感も得られないので憑依をあきらめることになるようです。
または、霊感に無理解、あるいは無い人に対しても憑依は無駄であり、あきらめることになります。

したがって、憑依されやすい人が憑依を防ぐには、ふだんから未浄化霊への強い拒否的意志(思念)を固めておくことが、もっとも有効な手段であると言えるでしょう。

この憑依を防ぐ方法は、マヤの幼子に憑依されていたクライアントの守護霊によって確認しています。

それでは、未浄化霊はどこに憑依するのでしょうか。

霊体に憑依すると言います。

この霊体への憑依によって、被憑依者の霊体に宿っている本来の意識・潜在意識に、憑依した未浄化霊の意識(残留思念)が併存、ないし混入することになる、という理解が「霊体仮説」から導き出されます。

こうして、憑依によって、未浄化霊の残留思念(悲しみ、怒り、憎しみなどマイナスの思念)の影響を多かれ少なかれ受けざるを得ない被憑依者の意識は、理由の思い当たらない憂鬱感や悲哀感、怒りなどの意識に彩られることになります。

強力な未浄化霊の憑依によっては、その優勢な残留思念に支配され、一時的に本来の人格が変わってしまうような意識現象があらわれるかもしれません。
このことは、生き霊に憑依されたクライアントが示した事例からも類推できそうだと思われます。

私の体験した唯一の事例においては、統合失調症の診断の下りている青年で、精神科に入院するために病院に入ると同時に寛解状態に戻り、入院の必要なしと診断されて病院から出ると同時に異常行動に戻ることを繰り返すという不思議な病態を示しました。

大胆な私見を述べれば、この事例は、被憑依者の病院内での治療を嫌う未浄化霊が、憑依したり、離れたりするという解釈をすれば理解できそうです。
私の信頼している唯一の霊能者も、この青年の事例は私見のとおりだろうとコメントしています。

とすれば、統合失調症の患者さんの中には、強力な未浄化霊の憑依による病態だと推測できる患者さんがおいでになるかもしれません。


2016年7月21日木曜日

SAM催眠学序説 その94

SAM催眠学とスティーヴンソンの生まれ変わりについての見解


私の研究の方法論は、イアン・スティーヴンソンの諸著作から学んだことを手本としています。
彼は、自らの手で集めている生まれ変わりを示す証拠が、自ら事実を物語るはずだ、と次のように繰り返し述べています。

私の見解は重要ではない。私は自分の役割は、できる限り明確に証拠を提示することにあると考えている。読者諸賢は、そうした証拠をー厳密に検討されたうえで自分なりの結論に到達する必要があるのである。
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


また、生まれ変わりという考え方は、最後に受け入れるべき解釈なので、これに替わりうる説明がすべて棄却できた後に、初めて採用すべきである、という慎重な研究方法を一貫して採用しています。

拙著、『前世療法の探究』、『生まれ変わりが科学的に証明された!』のタエ・ラタラジューの両事例の諸検証は、スティーヴンソンの検証方法を忠実に守っておこなったつもりです。

私が死の恐怖について、きわめて臆病な人間であったことはこのブログに書きました。
そして、死の恐怖から免れるために、宗教に救いを求めることは、生来の気質からできなかったことも正直に述べました。

こうした私だからこそ、イアン・スティーヴンソンの生まれ変わりの科学としての研究に強く惹かれるものを感じてきました。
彼こそ、生まれ変わりという宗教的概念を、宗教的なものから科学的探究の対象へと位置づけることに成功した先駆的科学者であると評価できると思うからです。

そこで、ここでは、彼の生まれ変わりについての見解がもっとも濃厚に述べられている『前世を記憶する子どもたち』日本共文社、1989から、その見解を紹介し、SAM催眠学の魂二層構造仮説と比較してみたいと思います。
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生まれ変わったと推定される者では、先述のイメージ記憶、行動的記憶、身体的痕跡という三通りの要素が不思議にも結びついており、前世と現世の間でもそれが一体になっていなかったとは、私には想像すらできない。
このことからすると、この要素(ないしその表象)は、ある中間的媒体に従属しているらしいことがわかる。この中間的媒体が持っている他の要素については、おそらくまだ何もわかっていない。

前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を「心搬体(サイコフォア)」と呼ぶことにしたらどうかと思う。私は、心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う。(中略)

私は、「前世の人格」という言葉を、ある子どもがその生涯を記憶している人物に対して用いてきたけれども、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しないからである。
実 際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。人格は、一人の人間がい ずれの時点でも持っている、外部から観察される心理的特性をすべて包含しているのに対して、個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去 世の残渣が加わる。したがって、私たちの個性には、人格としては決して表出することのないものや、異常な状況以外では人間の意識に昇らないものが数多く含 まれているのである。
(前掲書PP.359-360)
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上記のスティーヴンソンの見解とSAM催眠学の「魂の二層構造仮説」の見解とを比較してみると、ほぼ整合するところが指摘できます。

彼の言う「中間的媒体」、「心搬体(サイコフォア)」は、SAM催眠学の「魂」と同義です。
おそらくスティーヴンソンはSoulという語にまとわりつく宗教臭を回避したのだと思われます。
このことについて彼は次のように述べています。

私は、この中間媒体を表す用語として(心を運ぶと言う意味を持つ)「心搬体(サイコフォア)」という
言 葉を提案した。(私は、生まれ変わり信仰を持つ多くの宗教に、こうした中間媒体を意味する言葉があることを承知している。しかしながら、生まれ変わりに関 する私たちの、依然として初歩的な科学的研究を宗教と結びつけるのを避けるため、新しい言葉を作った方がよいと考えたわけである。)
(イアン・スティーヴンソン『「生まれ変わりの刻印』春秋社、1998、P198)


私は、前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を、そのまま従来の「魂」の概念でも不都合はないと思いますし、取り立てて新しい概念でもないのに「心搬体」などの造語を用いることは不要だと思っています。

また、彼の、「心搬体を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らないけれども、肉体のない人格がある種の経験を積み、活動を停止していないとすれば、心搬体は変化して行くのではないかと思う」という見解は、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化(変化)する仕組みになっている」という仮説を支持するものと言えそうです。

ただし、「心搬体」=「魂」を構成する要素がどのような配列になっているのかは全く知らない、と述べています。
私は、私あて霊信によって、「魂を構成する要素がどのような配列になっているのか」を教えられ、催眠を道具にその真偽の検証によって、魂表層を構成する前世の人格たちを呼び出すことに成功したと思っています。

しかも、「ラタラジューの事例」によって、前世人格ラタラジューは、魂表層で、肉体はなくとも生きて活動していることを実証できたと思っています。

つまり、「魂は二層構造になっており、表層は前世人格たちが構成し、それら前世諸人格は互いの人生の知恵を分かち合い学び合い、表層全体の集合意識が成長・進化する仕組みになっている」というのが、SAM催眠学の見解です。

つまり、「心搬体」=「魂」の表層全体は、変化していくものだということを、顕現化した前世諸人格の語りから確かめています。

さらに、一つの「人格」がそっくりそのまま生まれ変わるという言い方は避けてきた。そのような形での生まれ変わりが起こりうることを示唆する証拠は存在しない、というスティーヴンソンの見解は、そっくりSAM催眠学の見解と同様です。

現世の私という人格が、来世にそのままそっくり生まれ変わるわけではなく、魂表層の一つとして生き続けるのであって、魂が生まれ変わるとは、「表層を含めた一つの魂全体」だというのが、SAM催眠学の示す生まれ変わりの実相だと言えます。

また、「実際に生まれ変わるかも知れないのは、直前の前世の人格および、それ以前に繰り返された過去世の人格に由来する「個性」なのである。個性には、そのうえに、現世で積み重ねた経験とそれまでの過去世の残渣が加わる」というスティーヴンソンの考え方も、SAM催眠学の見解にほぼ一致します。

現世の個性は、魂表層の前世人格たちから人生の知恵を分かち与えられており、このようにして繰り返された前世の諸人格に由来する「個性」と、現世での諸経験とによって、形成されているに違いないのです。

さて、私が、故スティーヴンソンに求めたのは、前世の記憶を語る子どもたちの「記憶」の所在についての考究でした。

彼が、「前世の記憶」が脳にだけあるとは考えていないことは、「心搬体」という死後存続する「媒体」を想定していたことに照らせば、間違いありません。

私の期待したのは、その「心搬体」と「脳」との関係についてのスティーヴンソンの考究です。

前世の記憶を語る子どもたちは、その前世記憶の情報を、心搬体から得て話したのか、脳から得て話したのか、いずれなのでしょうか。

私の大胆な仮説を述べてみますと、すべての事例がそうではないにしても、子どもの魂表層に存在する前世人格が、顕現化(自己内憑依)し、子どもの口を通して、前世人格みずからが自分の人生を語った可能性があるのではなかろうか、ということになります。

それは、その前世を語った子どもの12事例のうち、8つの事例で、次のように話し始めた(ふるまった)とスティーヴンソンが紹介しているからです。

①ゴールパールは、「そんなものは持たない。ぼくはシャルマだ」と答え、周囲を仰天させた。(前掲書94)

②コーリスが1歳1ヶ月になったばかりの頃、母親が名前を復唱させようとしたところ、コーリスは腹立たしげに、「ぼくが誰か知ってるよね。カーコディだよ」と言った。(前掲書P98)

③日本に帰りたいという願望をよく口にし、ホームシックから膝を抱いてめそめそ泣くこともあった。また、自分の前で英米人の話が出ると、英米人に対する怒りの気持ちを露わにした。(前掲書P101)

④シャムリニーは、その町に住んでいた時代の両親の名前を挙げ、ガルトウダワのお母さんのことをよく話した。また、姉妹のことやふたりの同級生のことも語っている。(前掲書P104)

⑤ボンクチはチャムラットを殺害した犯人は許せないという態度を示し、機会があると復讐してやる、と何年か言い続けた。(前掲書P116)

⑥おまえの名前は「サムエル」だと教えようとしても、サムエルはほとんど従おうとしなかった。「ぼくはペルティだ」と言ってきかなかったのである。(前掲書P121)

⑦前世の話をもっとも頻繁にしていた頃のロバータは、時折前世の両親や自宅の記憶を全面的に残している子どもが養女にきているみたいにふるまった。(前掲書P126)

⑧3歳の頃マイクルは、全く知らないはずの人たちや出来事を知っているらしい兆候を見せ始めた。そしてある日、「キャロル・ミラー」という名前を口にして、母親を驚かせたのである。(前掲書P141)

以上のような事例の事実は、「子どもが前世の記憶を話した」というよりは、「前世人格が現れて人生の出来事を話した」と、現象学的にありのままに受け取ることのほうが、自然だと私には思われるのです。

スティーヴンソンは、応答型真性異言の「グレートフェン」の事例において、グレートフェンを顕現化した「トランス人格(前世人格)」として解釈しています。

前世を語った子どもにおいても、前世人格の顕現化の可能性をなぜ検討しなかったのか、私には不満が残ります。
子どもが語ったのは「前世の記憶」だという思い込みがあるように思われてなりません。
仮に、子どもが語ったのは「前世の記憶」だとして、その記憶の所在はいったいどこにあるのでしょうか?


とりわけ、上記③⑤⑦などのような、「態度」や「ふるまい」があらわれる事例は、前世の記憶ではなく、魂表層に存在する「前世人格の顕現化」として受け取るのが自然だろうと思います。

スティーヴンソンが存命しているなら、是非尋ねてみたいものです。