2017年7月15日土曜日

SAM催眠学序説 その103

前世人格の顕現化とは「自己内憑依」である


前世人格の顕現化は、「自己内憑依」だというとらえ方は、SAM催眠学が打ち出した独自のまったく新たな作業仮説です。


この信じ難い考え方に至った経緯を述べてみます。

SAM催眠学は、霊的存在の実在と、それら霊的存在との交信、および憑依現象を認める立場に立っています。
このことは、私あて霊信の告げた内容をそっくり 作業仮説として採用しているSAM前世療法という前世療法の成り立ちからして当然の帰結です。


私が霊魂と霊的存在の実在を認める立場をとる理由は、それがクライアントが示す意識現象を観察した直感に著しく反していないからであり、それを認めることが不合理な結論に帰着しないからであり、その憑依的現象が唯物論の知の枠組みからは説明できないからです。

SAM前世療法の作業仮説は、私あて通信霊の告げた魂の構造を前提にして導き出したもので、良好な催眠状態に誘導し、潜在意識を遡行していくと、意識現象の事実として、クライアントが「魂の自覚状態」に至ることが明らかになっています。
この魂の自覚状態に至れば、呼び出しに該当する前世人格が魂の表層から顕現化し、対話ができることもクライアントの意識現象の事実として明らかになっています。

アンビリ放映のタエとラタラジューも、こうして呼び出した前世人格の一つであるわけで、その前世人格ラタラジューが真性異言で会話した事実を前にして、魂や生まれ変わりの実在を回避するために、深層心理学的概念を駆使し、クライアントの霊的意識現象に対して、深層心理学的解釈することは、現行唯物論科学の知の枠組みに固執した不自然で不毛な営みだ、と私には思われるのです。

魂の自覚状態、そこで現象する前世人格の顕現化という意識現象に対して、事実は事実としてありのままに認めるという現象学的態度をとってこそ、SAM前世療法と、そこから得られた知見を体系化しようと試みるSAM催眠学を、実りあるものにしていくと思っています。
そして、クライアントの示す霊的意識現象の諸事実は、現行科学の枠組みによる説明では、到底おさまり切るものではありません。
魂や生まれ変わりの実在を認めることを否定し回避する立場で、あるいはすべて非科学的妄想だと切り捨てる立場で、どうやってラタラジューの応答型真性異言現象を説得力のある説明ができるというのでしょうか。

ちなみに、スティーヴンソンも、「グレートヒェンの事例」において、ドイツ語の真性異言で対話したグレートヒェンを名乗る少女を、被験者の前世の記憶の語りではなく、「ドイツ人とおぼしき人格をもう一度呼び出そうと試みた」(『前世の言葉を話す人々』P11)と記述し、呼び出された前世人格を「トランス人格」(前掲書P9)と呼んでいます。
つまり、催眠下の魂状態で前世人格を呼び出し顕現化させる、というSAM前世療法における私と同様のとらえ方をしています。
おそらく、この被験者も里沙さんのような高い催眠感受性を持ち、タエやラタラジューの人格同様、催眠下で一気に魂状態になり、その表層に存在している前世人格グレートヒェンが自動的に顕現化したと推測してよいように思われます。 
 
こうした海外で発見された催眠下の応答型真性異言事例と考え合わせると、「前世人格の存在する座は魂の表層である」、とするSAM前世療法の作業仮説の検証は、ますます意味深い作業になると思っています。
なぜならば、スティーヴンソンは、呼び出された「トランス人格(前世人格)」が真性異言を話すことまでは言及しても、その「トランス人格(前世人格)」の存在する座はいったいどこにあるのかまでは言及しようとしていません。
また、「自己内憑依」というとらえ方を打ち出しているわけでもありません。
それは、スティーヴンソンが、私のように霊信による魂と生まれ変わりに関する情報を受け取ることがなかったためではないかと思われます。


ただし、彼は、「前世から来世へとある人格の心的要素を運搬する媒体を『心搬体(サイコフォア)』と呼ぶことにしたらどうか(『前世を記憶する子どもたち』P359」とまでは提唱しています。
つまり、スティーヴンソンも、死後存続する「人格の心的要素を運搬する媒体(心搬体)」を想定しないことには、応答型真性異言現象の説明ができないことを自覚していたことになります。

私が「魂」と呼ぶものを、彼が「心搬体」と呼ぶのは、宗教色を排除しようとした科学者としてのスティーヴンソンの慎重な自制からでしょう。
SAM前世療法は、彼がそれ以上言及できなかった前世人格が、意識体として存在する座(魂の表層)までも検証しようとするものです。

ちなみに私が、「霊魂」と「生まれ変わり」を認めるからと言って、特定の宗教に関係している人間ではありません。
どこまでも、SAM前世療法に現れる意識現象の事実を認める立場から、宗教とはまったく無関係に、必然的に至らざるをえなくなった、いわば科学的見解です。

さて、「前世人格の顕現化とは、『自己内憑依』だ」というとらえ方は、2011年4月8日におこなったラタラジュー顕現化の再セッションにおいて、里沙さんの守護霊の告げたことに触発された見解です。
「ラタラジューの現れる現象を憑依だととらえなさい。応答型真性異言のような現象は優れた霊媒体質を持つ者だけに現れる特異な現象です」と彼女の守護霊は告げたのです。
彼女の守護霊は、私に霊界や霊現象の消息を伝えることを使命としている、と以前から告げていますから、その言を真摯に受け入れることが私の基本的立場です。

「憑依」とは、「霊などがのりうつること(『大辞林』)」とされています。
私が「前世人格の顕現化」と呼んでいる意識現象は、その観察事実から、意識体としての前世人格がのりうつる、まさしく憑依現象そのものだと言ってよいものです。
前世人格が、現世の肉体に「のりうつり」、現世の肉体(発声器官・指など)を借りて自己表現をしている、と観察できる現象です。

その消息は次のようなクライアントのセッション後の感想からもうかがい知ることができます。

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まず、男のような声で唸る自分に驚き、続いて鼻を鳴らしたり、また唸ったり、発する声が完全に男になっていたことに本当に驚きました。彼は、ドイツの木こりでした。結局のところ彼はどうしてこの場に出てきたのかわからず、「なんでかな〜」と唸りながら、首を傾げていました。そして、先生から「また今後ゆっくりお話を聞きましょう」といわれその後、私は現世に戻って来ました。

 今回の先生とのセッションは、私にとってとても印象深く、ちょっとした衝撃でした。今までワイス式では、どちらかと言うと「自分で作ってしまっているのではないか」という感がありました。しかし、SAMでは、誘導から一っ飛びに、その人物になってしまったり、明らかに男の声、しゃべり方になっていることを実感できたからです。
 となると、魂の側面のものたちが存在すると私は確信せざるをえません。
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このクライアントが報告しているような、「男のような声で唸る」、「鼻を鳴らしたり、また唸ったり、発する声が完全に男になっていた」、「その人物になってしまったり、明らかに男の声、しゃべり方になっている」 などの現象は、SAM前世療法において前世人格が口頭で対話するときに一般的に現れます。
つまり、前世人格が、現世の肉体に「のりうつり」、現世の肉体(発声器官・指など)を借りて自己表現をしていると観察できる現象です。
まさに、前世人格の現世の肉体への憑依現象と呼んで差し支えない現象です。
したがって、自己表現している主体は、クライアントではなく前世人格にほかなりません。

you-tubeに公開している「タエの事例」、「ラタラジューの事例」のセッション映像をご覧になれば、私の主張は納得していただけるでしょう。

私は、したがって、「前世人格の顕現化現象」を、「自己内憑依」と呼ぶことにしました。
魂の表層に存在している、意識体である前世人格が、現世の肉体(自己)に憑依する、という新しい概念です。

一般に憑依とは、自己以外の異物である霊的存在が、自己にのりうつる現象を意味していますから、これを「自己内憑依=前世人格の顕現化」に対して、「自己外憑依」とでも呼ぶことにします。

前世人格とは、自己の魂の表層に存在しているのですが、いわゆる死者であり霊的存在でもあるわけですから、「憑依」の概念が適用されても誤りではないと思います。

ただ、これまで魂表層に存在する前世人格という、いわば自己の身内が、自己に憑依するという現象が発見されていなかったので、「自己内憑依」という表現が突飛で奇妙な言い方であるように印象されるだけです。
こうしてSAM前世療法の発見したところの、いわば創造的定義が「自己内憑依」です。

そして、「自己内憑依」と「自己外憑依」の見分けの指標は、とりあえず次のように言えると思います。

自己内憑依の場合は、モニター意識(顕在意識)が働いて、「憑依人格=前世人格」との同一性の感覚が働きます。「憑依人格=前世人格」が顕現化中の記憶が明瞭に残ります。

これに対して、「自己外憑依」の場合は、モニター意識が、憑依人格に対して同一性の感覚を持てないか、あるいは憑依中の記憶が残らないことが多いものです。

以上の「自己内」、「自己外」の「憑依現象」に対する批判的見解として、精神医学からは「憑依妄想」が疑われるでしょう。

催眠学の立場からは、憑依人格になったつもりの「役割演技」の可能性が疑われるでしょう。

唯物論科学の立場からのこうした疑問は完全に排除できませんが、しかし、応答型真性異言「ラタラジューの事例」が、「自己内憑依」仮説を強力に支持しています。

この事例の検証によって、「自己内憑依」したラタラジューが、被験者里沙さんの「憑依妄想」や「役割演技」といった唯物論的説明では到底成り立たないことを明白に証明しているからです。

妄想や役割演技によって現れた架空人格のラタラジューが、応答的に真性のネパール語で対話できるはずがないからです。
被験者里沙さんが、ネパール語を学んでいないことは、ポリグラフ検査の鑑定によって明らかになっています。
しかも、ラタラジュー人格は、現代 ネパール語ではほぼ死語となっている「スワシニ(妻)」、「アト・サトリ=8と70(78)」といった古いネパール語単語を用いて対話をしています。
さらに、対話相手のネパール人女性に対して、「あなたはネパール人ですか?」と問い、そうです、という返事に対して、「お、お、・・・」と喜びを表明し、明らかに現在進行形の対話をしています。
ラタラジュー人格は、ただいま、ここに、被験者里沙さんの肉体に憑依し、自己表現している、としか解釈できない現象ではないでしょうか。

こうして、SAM前世療法とは、魂状態に遡行できれば、「自己内憑依」、「自己外憑依」の両憑依現象が喚起でき、霊的存在との対話を可能にする前世療法だということができそうです。

そして、SAM前世療法において、クライアントは霊的存在(前世人格)を宿らせる「霊媒」の役割を果たし、セラピストは、霊的存在の憑依を、霊媒であるクライアントに喚起させる触媒的役割を担う、という関係になるでしょう。

さらに言えば、自己内憑依した前世人格と、その苦しみや悲しみを共感的に理解しながら対話するセラピスト、その対話を傍聴しているクライアントのモニター意識という三者的構図こそ、SAM前世療法独自の際立つセッション構造だと考えることができます。